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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第3部 半世紀を超えて <4>

■記者 西本雅実

鬼籍 心の軌跡 生涯語らず

 「ヒロシマ・ガールズ」の1人だったデザイナーが、昨年4月に亡くなった。69歳だった。

 広島市民病院に入院していたころ、被爆50周年の取材で、被爆体験や渡米治療の思い出を尋ねる手紙を送ると、病床から返事が届いた。

 「何よりも米国人家庭の一員として温かく生活を共にしたことです。ちっともケロイドが恥ずかしいことではない気持ち、マイナスをプラスに持っていきたいという気持ちが強くなりました」。気質の一端をうかがわせる、きちょうめんな字でつづられていた。

 爆心地から約1キロ。建物疎開作業に出た中区富士見町で原爆の熱線を浴び、首と肩に傷跡が残った。やがて、広島流川教会に集った独身の被爆女性たちでつくった「シオン会」の一員となる。賛美歌の一節にちなんで名付けられたグループは、一般には「原爆乙女の会」の呼び名で知られた。

 渡米治療を提唱した谷本清牧師=1986年死去(77)=が率いて、彼女を含む9人が1952年、東京大で診察を受ける。それが引き金となり、被爆者援護への関心が高まる。最年長ということもあり、グループ代表としてマスコミにもたびたび登場した。

 グループが著した手記集に寄せた1文が残る。当時27歳。被爆からの日々を「死と絶望だけの人生でした」と記し、短歌でこう結んだ。「我が父よ、よるべなき身の十字架に 君が救いの御手のべ給へ」

 それだけに、渡米治療で出会った人たちの愛は心からうれしかったという。病院でも、自立へと歩み出した米国時代を、母親代わりとなった日米の婦人の献身をもっぱらに語った。

 ガールズのホスト家庭を引き受けたクエーカーたちの援助で、さらに米国に2年半余りとどまる。ニューヨークでも指折りのデザイナー校で学び、欧州にも留学した。帰国後、帝国ホテルでファッションショーを開き、都内で自らの名を冠したオートクチュール店を構えた。

 しかし、被爆に始まる半生を表立って語ることはちゅうちょした。「語り継ぎたいと思いますが、家族にも話したことはない。どうしても愚痴になってしまいそう…」。揺れる心がのぞく。それから2カ月後、息を引き取った。

 「再発への不安が、自分を語るのをためらわせたのかもしれません」。広島市郊外に住む6つ違いの弟は、亡き姉の胸のうちを推し量った。

 40歳を過ぎて直腸がんが見つかり、広島に帰って来たという。「病院通いが続く一方で、酒を好み、晩年は閉じこもりがちだった。とりわけ原爆のことは話したがりませんでした」。今となっては肉親にも、彼女の心の軌跡は判然としない。

 クエーカーたちの彼女への支援は、治療を終えて帰国したガールズの自立も手助けする狙いがあった。計画はさまざまな理由でうまくいかなかった。それでも広島に戻った後は自宅マンションの一室で、米国仕込みの腕を振るい、デザイナーや裁断師養成の指導に当たった。仕事に生き、現役を貫いた。

 今もことあるたびに呼ばれる「原爆乙女」。この呼称について、体調を押して手紙でこう伝えて来た。

 「私も皆さんと同じ人間だ…と思うのです。性格がちゃんとあるのに、そんな言い方はして欲しくないと年を経るに従って思います」

 国内外で被爆実態への喚起を呼び覚ましたガールズ25人のうち、すでに5人が鬼籍に入った。

(1996年7月30日朝刊掲載)

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