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連載・特集

人類は生きねばならぬ 被爆者 印パ行脚 <1> 祈りのハンカチ

■記者 山根徹三

ノーモアの決意託す

   被爆者の武田靖彦さん(65)=広島市安芸区=が6月、核実験を応酬したインドとパキスタンを巡った。広島県原水禁の緊急派遣団のメンバーとして、坂本健事務局長(52)、原水禁国民会議の田窪雅文さん(47)との平和行脚。持病をおして核実験場近くの村にも足を運び、被爆体験の証言は両国で18回に及んだ。しゃく熱の地で核廃絶を訴える武田さんの思いや両国の現状を報告する。

 太い声が集会場に響く。静かに始まり、次第にトーンが高まる。「お母さん助けて、と言いながら姉は息を引き取りました」。被爆から3日後、16歳で死亡した姉、素子さんの最期を伝える時、涙があふれた。何度語っても声が震える。

 インド西部の都市ジョドプールから、砂漠を縫う道を車で約5時間。ポカラン核実験場の南10キロのケトライ村は、気温が45度を超える。300人の村人が集まったテント内には熱気も加わる。旅は4日目に入った。放射線障害の恐ろしさを訴える証言は既に6回目を数えた。

 修道中1年の時、原爆投下の2日後、広島市中心部に入って被爆。同級生37人が犠牲になり、将来の夢を断たれた。「子どもたちのためにも、核兵器をなくさねば。1人でも多くの人に核の脅威や悲惨さが伝わってくれ、と願わずにはいられないんだ」

 武田さんは6枚のハンカチを現地に持参した。友禅染めの白地にオレンジ色のきのこ雲の図柄。原爆投下時、JR矢野駅(現安芸区)から見た雲の色が忘れられない。「平和な世界実現こそが戦争犠牲者へのせめてもの供養」などと書き添える。

 1995(平成7)年、北マリアナ諸島のテニアン島での慰霊式に出席して以来、既に100枚以上をつくり、広島を訪れる修学旅行生らに託してきた。色紙に張り付けて板状にし、ビニールで覆う。1枚つくるのに5、6時間かかる。あの日を繰り返すまい、との強い思いを込める。

 熱風で砂が舞うインド・ジャイプール。中心部から車で10分の聖ザビエル校では、生徒が校庭でクリケットに興じていた。集会場となった講堂には「核兵器・核実験のない世界を」と英語とヒンディー語で書かれた立て看板。

 女性人権運動家、カビータ・スリバスタバさん(36)にも特製ハンカチを渡す。ひざの上に置きながら座り、「反核キャンペーンのために使う」と約束してくれた。通じた思いに、武田さんの顔に笑みが浮かんだ。

 日本を離れる前、武田さんは「コンクリートの壁にぶつかるようなもの」と述べていた。両国とも国民の9割以上が核実験を支持、と伝えられていたからだ。しかし、会場は真剣な表情で聴き入る人で埋まり、涙を流す女性の姿もあった。

 「市民と直接話し合うことは意義深く、来て良かった。かすかだが手ごたえもある」。武田さんがホッとした表情で感想を話したのは、前半のインド行脚を終えたころだった。

 一方で、集会場の内と外の違いを感じ始めてもいた。集会に来るのは、平和団体の呼びかけに応じた反核意識が高い人たち。一歩外に出れば、両国とも「核実験賛成」が大勢を占める。パキスタンに入った後、武田さんは「コンクリートの壁」を実感することになる。

(1998年7月3日朝刊掲載)

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