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連載・特集

人類は生きねばならぬ 被爆者 印パ行脚 <2> 越え難い溝

■記者 山根徹三

粘り強い取り組み誓う

   身長180センチはあろうか。ホテル地下の集会場へ続く階段には、がっしりとした体格の男性が立ちふさがっていた。

 パキスタン・イスラマバードの中心部。被爆者の武田靖彦さん(65)=広島市安芸区=の証言会を主催した平和団体のメンバーが、入場者の名前を1人ひとり、チェックする。

 その3週間前。平和団体を構成する一組織が、同じホテルで核実験に反対する声明を発表した。会見の途中、イスラム原理主義者のグループが乱入し、負傷者が出たのだった。

 物々しい雰囲気の中で、約150人を前に、武田さんの被爆証言が始まった。広島では核実験抗議の座り込みが500回を超えたことも説明した。

 ところが翌朝・。「日本はこれまで5000回の核実験をした」。地元英字紙に活字が躍った。「座り込み抗議を核実験と間違えるなんて」。イスラマバードに隣接するラワルピンディのホテルで、新聞を握りしめる武田さんの手が怒りで震えた。

 直後にあった記者会見。「放射線の恐ろしさを知った上で核実験を支持するのか」。武田さんが、マスコミ陣をにらみ付ける。訴えても、訴えても、被爆の実相が伝わらない現実にいらだたしさが募る。

 武田さんの右手には包帯が巻かれている。パキスタンに入った直後、舗装されていない集会場前の道で転んだ。飛行機、列車、車を乗り継ぎ、印パの10カ所を回る強行軍に、顔のつやもうせている。

 それでも、行脚は続く。会見後、ラワルピンディ中心部で、予定外の「つじ説法」に臨んだ。

 気温は40度近い。果物や野菜を売る屋台が並ぶ大通り。チキンを焼くにおいと排ガスのにおいが漂う一角で、武田さんが口を開いた。たちまち、周囲には人だかりができた。

 「インドが先に核実験をした。対抗するのは当たり前だ」。こぶしを上げる男性がいる。「インドの最初の実験から、24年待ったんだ」「国を守るには核は必要」…。人の輪のあちこちから上がる声に、訴えはかき消された。武田さんを見据える視線がトゲトゲしい。

 「いくら言ってもだめだと思った」。武田さんが、滞在先のホテルの喫茶店で、手にしたコーヒーカップに目を落とした。しばらくして顔を上げて続けた。「一気には無理かもしれんな。くじけてはいけんよ」

 飛行機や列車内で、武田さんは折りづるを折り続けた。集会参加者に配るためだ。つじ説法の翌日。締めくくりの集会がラホールであった。集会後、若者に折りづるの作り方を教える武田さんに笑顔がよみがえった。

 「壊滅的な打撃を受ける放射線の恐ろしさだけは粘り強く訴えなければ」。一度は打ちのめされた気持ちを、振り切るように言った。

(1998年7月4日朝刊掲載)

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