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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <1> 二つの顔

■記者 伊藤一亘

療養中 朝鮮戦争に衝撃

 詩人と医師。御庄博実さん(85)=本名丸屋博、広島市安佐南区=は二つの顔を持つ。岩国市に生まれ、原爆投下2日後に知人を捜し広島市内に入った。戦後、峠三吉らと活動する一方、医師として国内外の被爆者に心を砕き、今も診療現場に立つ。

 僕の中で、詩人と医師は併存している。「命と向かい合う」のが医師。それは、詩人も変わらないし、そんな詩人でありたい。「人間の命」への思いが底流にあります。

 最近の現代詩は思想が飛躍し過ぎて、「言葉遊び」になっている面がある。僕は医師、つまり科学者という面も持ってますから、あまり理屈を飛び越えてしまうとついていけない。古いタイプの詩人なんです。

 「文明社会」の根幹は批評精神と想像力の二つだと考えています。それは常に人間の命にかかわる問題。ピカソは、ヒトラーがゲルニカを爆撃して大量虐殺を行った際、すぐにあの大作を描き上げた。その想像力、批評精神。僕の詩の基本も同じです。政治や権威に対する批評精神は常に磨いておかなければならないと思います。

 ヒロシマを体験した僕は、医師として韓国人被爆者や、イラクの劣化ウラン弾被害者と真剣に向き合ってきた。すると、酒が発酵、熟成するように、言葉が出始め、詩が生まれるんです。

 岡山医科大(現岡山大)3年のときに結核を発症し、療養のために岩国に戻る。1950年、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)。故郷は米軍の街に変貌(へんぼう)しようとしていた

 療養していた国立岩国病院(現国立病院機構岩国医療センター)からほんの数キロ先、敗戦により連合国に占領された岩国飛行場から、米軍の攻撃機が朝鮮半島に向けて飛び立っていくことに衝撃を受けました。

 岩国飛行場は戦前、旧海軍の飛行場として造られ、中学生だった僕たちも工事にかり出された。もっこを担いで土砂を運び、育ち盛りの稲が茂った青田を赤土で埋め立てた光景を鮮明に覚えています。子どものころ、友達と食用ガエルを捕って遊んだ思い出の場所でもありました。

 その飛行場が、米軍の攻撃拠点になり、また多くの命を奪っている。原罪感というのでしょうか。悲しみと怒りが、僕が詩を書くきっかけになりました。

(2010年7月27日朝刊掲載)

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