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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <3> 第二のふるさと

■記者 伊藤一亘

ボートに熱中した青春

 1943年、広島市の旧制広島高(現広島大)に入学した

 小さいころから体力に自信がなくてね。「身体を鍛えないとダメだ」と思い、ボート部に入りました。主将のところへ行って入部を申し込んだ。ボート部は練習がきついことで有名なので誰もが敬遠する。「自分から『入れてくれ』と言ってきたやつは初めてだ」と驚かれましたよ。

 練習は本当にきつかった。水の上でボートを漕(こ)ぐのはまだいい。学校に「バック台」という木でできた箱みたいな中に座り、ボートを漕ぐ体勢で腹筋を鍛える練習がつらくてね。僕は今、体重50キロもないけれど、当時は70キロ余りありましたよ。

 旧制高校のボート競技は6人制。「フィックス」といって、いすが固定されている。薄い座布団を敷くんだけど、練習のたびに尻の皮がむける。練習後、先輩に「尻を出せ」と言われて、みんなそろってヨードチンキを塗ってもらってました。

 宮島まで遠漕(えんそう)に出ることもしばしば

 潮の満ちた大鳥居をくぐり、朱に染まった神殿でくつろぐ。宮島は僕らの鎮守の庭でした。

 岩国遠漕もした。春先の水は冷たくて、北風が吹く。風が強くなり、白波が立つのを「白ウサギが跳ぶ」というんです。競技用ボートは横風に弱い。波にオールを取られながら、ボートに入る波をかき出し、凍えながら漕ぎ続ける。「遭難」の文字も頭にちらつきます。今津川にたどり着いたときにはぐったりでした。

 戦争の激化で卒業が繰り上げられ、2年間の高校生活だった

 入学したときにはもう戦争に突入していましたが、広島高はまだ自由な雰囲気が残ってました。一度、教壇に立って「日本は負けるぞ」と演説をぶったら、同級生に「けしからん」とつるし上げられました。

 ボートを漕がない日は、仲間と寮で人生論を戦わせたり、今の平和記念公園の辺りにあった洋画専門の映画館に行ったりしました。汚い手ぬぐいをさげて、寮歌を歌いながら比治山も散歩しましたね。

 たかだか2年間ですが、人間が羽化する、ちょうどそんな時期だった。培った友情は、今も心の奥に流れている。あの高校時代があるからこそ、広島は僕にとって第二のふるさとになっているんです。

(2010年7月29日朝刊掲載)

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