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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <9> 代々木病院

■記者 伊藤一亘

岡山離れ東京で医師に

 インターン制度で岡山大医学部付属病院(現岡山大病院)にいたころ、僕はお金がなくて友達から病院の当直の仕事を紹介してもらっていた。だが、数回行くと「もう来なくていい」と言われる。おかしいと思っていたら、教授に呼ばれて「思想を捨てるか、大学を捨てるか」と言われました。災害時の救援活動や文芸活動など学生運動をしてましたからね。「僕に仕事をさせるな」ということだったんでしょう。思想は捨てられないから、岡山を離れざるをえませんでした。

 1954年4月、医師国家試験を終えて上京。代々木病院(東京都渋谷区)に内科医として赴任する

 着任後、すぐに第一線に立ちました。くたびれた患者が来院し、朝食も食べてないし、電車賃もないという。いくらかお金を渡して帰したら、ベテラン看護師に「あれは医者から金をだまし取るのがねらい。見抜けない先生は甘い」と怒られてねえ。僕も若かったから「見抜けるよりだまされる人間になりたいよ」って言ってました。

 診察にはヒロシマの体験が生きました。倦怠(けんたい)感などを訴える男性が来院しましてね。すぐに体調が悪くなって仕事を休み解雇され、なかなか定職につけないという。しかし、検査で異常がない。何度病院に行っても同じで、医者にかかるのをあきらめかけていた。

 よくよく話を聞くと、広島の八丁堀で被爆したという。「そりゃ原爆のせいじゃないですか? 治しきれるか分からんが、一緒に頑張りましょう」と話すと、元気を出してくれました。彼はその後、渋谷区の被爆者の組織化に尽力してくれました。

 俳優の宇野重吉、演出家の土方与志らの担当医も務めた

 宇野さんは、不眠症や食欲不振を訴えての検査入院でした。それ以来、「くたびれたから注射してくれ」と、稽古(けいこ)場からよく電話がかかって、往診に行きましたよ。土方さんは、当時珍しい肺がんでした。夫人が「与志がワインを飲みたがっている」と相談に来られました。病院内はもちろん禁酒ですが、長くないのは分かっていた。「飲ませてあげてください」と許可すると、夫人にとても感謝されました。

 医者不足の時代で、とにかく忙しかった。結婚したばかりでしたが、妻は「あのころの私には家庭がなかった」と笑っています。

(2010年8月6日朝刊掲載)

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