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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <12> 広島共立病院へ

■記者 伊藤一旦

被爆の遺伝的影響考察

 1977年、広島医療生協の広島共立病院(広島市安佐南区)院長に就任する

 その2、3年前から、広島医療生協が新設する新病院長への就任を要請されていました。倉敷の公害問題も気になって迷っていた時、生協役員らと一緒に、被爆者支援活動をしていた歌人の深川宗俊(2008年に87歳で死去)が説得に来てね。「『われらの詩』で峠三吉と一緒にやったじゃないか。広島に帰ってこい」と。被爆者のためにもうひと仕事することにしました。

 自分なりの被爆者医療をやろうと思いました。まず、カルテを一般患者と被爆患者に分け、被爆患者のカルテには右肩に「A」マークを付けました。被爆患者を調べるときに、すぐカルテが取り出せるし、ひと目で被爆患者と分かることで、職員にも「共立病院は被爆者医療を大切にしている」と再認識させられる。広島医療生協の「原爆被害者の会」を立て直して、その声を病院経営に反映させる努力もしました。

 1981年ごろ、1人の女性が院長室を訪れる。被爆から15年後に産んだ次男を白血病で失った名越操さん(1986年に56歳で死去)だった

 「原爆は、私の子どもまで焼いたことを医学的に証明してほしい」と涙ながらに訴えられました。原爆の遺伝的影響は長年の課題でもあり、2世健診を始めました。ただこれが難しい。子どもを連れた母親に、子どもに異常があったか、流産したかなどを聞かなきゃいけない。なかなか話してくれません。

 その後、「原爆放射線の人体影響1992」(文光堂)という本が出ました。そこに広島市の被爆2世、3世の奇形発生率がありました。被爆3世にあたる自然流産児に、通常より明らかに奇形が多い。そのデータを基に考察した論文「原爆放射線の遺伝的影響」を1996年、日本科学者会議の雑誌「日本の科学者」に発表しました。少しは名越さんの宿題を果たせたかな、と思っています。

  1987年に「御庄博実詩集」(思潮社)を出版

 実は、東京を離れるころ、安部公房ら文学者の共産党からの追放などがあって書くのが嫌になり、筆を折っていました。倉敷時代は院内誌にちょこっと書くぐらい。広島に戻り、深川の勧めもあって、ちゃんとした詩集を1冊だけでも残そうと思ってね。詩集を出したことが、再び詩を書くきっかけになりました。

(2010年8月11日朝刊掲載)

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