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連載・特集

原爆文学21世紀へ 前編 作品―そのとき・それから <2>

■記者 梅原勝己

藤本仁と「倉橋島」 被爆者も十人十色、ありのままに描く

 1945年8月6日、旧制広島二中の3年生だった藤本仁は、南観音町(広島市西区)の軍需工場に勤労動員に出ていた。「最初の衝撃が去った後、まず何を考えたと思う? やれやれ、これで家に帰れると喜んだんだ。これは本当のことだ」

 廿日市市の避難所を経て東広島市の自宅に帰る道々の惨状を目にしてからは、その思いは心の奥底に沈みこんだ。ただ、被災直後に立ち寄った寮で、その前日に「みんなで食べてください」と寮生の父母が持ってきたイモの入ったバケツにつまずき、ある教師にこっぴどくしかられたことは覚えている。状況からして、そのバケツは教師が自宅に持ち帰ろうとしていたことは明らかだった。「そんな理不尽な仕打ちに満ちていたのが、当時の寮生活。被爆の前に、すでに私の精神は徹底的にたたきのめされていたんだ」

 ささいな落ち度に目を光らせ、のしかかるように威張り散らす教師たち、し虐的な態度で下級生をどう喝し、いじめを加える上級生たち…。東京から疎開してきた中学生には、粘りつくような広島弁の響きも忌まわしさそのものだった。

 上級生にいじめ抜かれた一年生がいた。あざとくおもねり、身もふたもない上級生の意見に軽やかに相づちを打てない者には、戦時下の寮生活は過酷な世界だった。時折美しい姉が訪ねて来て、沈み込みがちな彼をなぐさめている姿を、今も切なく回想する。「年月を重ね、違う経験を積んだ彼が、そのつらい時代をどう振り返るか。そんなことが私の作品のテーマだけど…」

 爆心地近くに動員された1年生はほぼ全滅。成人した彼を小説に書く機会は永遠に失われた。「私は彼を殺した原爆を憎む。でも、彼を追い詰めた教師や上級生にも原爆の被害は及んだんだ。被爆者としてひとくくりにはできない感情があるはずなんだけど、それを口にできない空気が戦後ずっとあった」

 戦後、東京の大学で同人誌を始めたときには、まだその空気にとらえられていた。「すべての被爆者を殉教者かなんかのように描いて、単純に平和を訴えるような作品」を書いた時、その作品の稚拙さを含め、口をつぐんでしまった友人たち。そのことを、苦々しく思い出す。「彼らは私が被爆者であることを知っていた。文学作品である前に、原爆の体験が一人歩きしていたんだ。自己嫌悪に陥って、そんな書き方は絶対間違いだと思った」

 「倉橋島」の偏屈なエゴイストの元教師は被爆者だし、その一人息子は被爆死している。その死を悼む元教師は強欲ゆえに周囲を傷つける。「他人の靴」(歯車20号、1970年刊)では死者から靴を脱がす被爆者を描いた。「一九四五年冬」(同27号、1975年刊)では、被爆した朝鮮人徴用工のすべてが、優しく無垢(むく)な被害者としてだけ心にとどめられているのではないことを示した。

 「私が目指しているのは、いわゆる私小説。うまく書けているかどうかがすべてなんだ。うまく、というのは、どれだけ飾りを排して、むき出しの人間が描けるかということ。『被爆者』という飾りも、もちろん例外じゃないんだ」(敬称略)

 <メモ>
「倉橋島」は、「歯車」18号(1969年12月刊)に初出。「<八月六日>を描く第二集」(1971年、文化評論出版刊)、「日本の原爆文学(11)」(1983年、ほるぷ出版刊)にも収録された。

 「私」のおばの再婚相手の弟は、兄の被爆死の後、遺産相続のもつれから、おばを追い出し、島の家に住みつく。転校先の物理教師でもあった彼に対して反感を抱いていた「私」は、終戦から20年後に島の彼を訪ねる。そして、妻の死、養子との確執から自殺を選ぶ彼のその後の境遇を知る。藤本仁は、1930年東京生まれ。呉市在住。

(2000年8月1日朝刊掲載)

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