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連載・特集

原爆文学21世紀へ 前編 作品―そのとき・それから <3>

■記者 梅原勝己

文沢隆一と「重い車」 行き場失った人々「知る」こと重視へ

 「重い車」が書かれた1962年ごろ、今の広島市民球場の西側の河岸から北へ2キロにわたる一帯に、戦後すぐ建てられた粗末な家屋が密集する、相生通りと呼ばれた地域があった。原爆の被災で家を失った人たちが多く移り住んだことから「原爆スラム」と呼ばれた。母親を原爆で失った「重い車」の主人公「おら」も、うどん屋の屋台を引く祖父と共にここに住む。

 「でも、そのころ、相生通りの一帯の暮らしについては、何も知らなかったんだ」と文沢隆一は言う。この作品を書いているとき、相生通り近くの児童公園や砂舟の荷揚げ場で何時間も座り込んでいたことはある。そんなとき、主人公のイメージに似た少年が通りかかることがあった。

 「重苦しい気分にとらわれて声を掛けられなかった。自分は観察しようとしているんだ。何てごう慢な人間なんだろうってね」

 そこに移り住むのは「重い車」が「群像」新人賞を受賞した翌年。2カ月間、豚小屋として使われていた建物の2階に居を構え、塩辛く生ぬるい水が出る共同井戸で顔を洗い、米を研いだ。ルポをまとめる仕事(山代巴編「この世界の片隅で」)のためだったが、それまで頭の中にだけ存在していた「おら」や「じいさん」と出会い、話すことができた。行き場を失った元朝鮮人徴用工や傷病軍人、昼間から密造酒をあおる青年、うそをつくことが癖になり、家出を繰り返す廃品回収業の娘…。

 「これは小説になるぞとは、とても思えなかった。事実に圧倒されて書けなくなった、というのとも違う気がする」

 被爆地から60キロ北にある古里の広島県山県郡千代田町で原子雲を見た。旧制広島高校を休学中の体験だった。被爆死した友人もいたが、その意味を突き詰めてみたことはなかった。

 「原爆投下や被爆者について、ほとんど知らなかったことになる。直感で小説を書いていたが、そのまま書き続けるより、知ることの方が大切な気がしてきたんだ」

 1961年に安芸文学9号に発表した「地の底」が処女作だった。右腕に青白く変色しつつあるケロイドを持つ男が「恐怖の復活祭」を準備している街のけん騒を背に自決すると、人々は「ふん、酔っ払いめ」と侮べつの視線を向ける。傾倒していたカフカの世界をヒロシマに着地させた手腕が注目を浴びた。

 フォークナーの内面の独白の手法を大胆に取り入れた「重い車」の受賞。その後の展開は、1953年の原爆文学論争以来、地元作家たちが模索していた「被爆体験の思想化」として、中央「文壇」への最も先鋭な回答となるはずだった。

 「相生通り」での生活を体験して後、胎内被爆による小頭症児の家族に呼びかけた「きのこ会」の組織化に事務局長としてかかわり、被爆資料の編さんも手がけた。それらの経験は評論「ヒロシマの歩んだ道」(1997年刊)で生かされる。一方、小説は、峠一夫(三吉の兄)の論文や平和資料館ノートの引用が大部分を占める「風は木の間をぬって」(安芸文学33号、1972年刊)、雑記のスタイルの中に、相生通りで知り合った被爆者たちのその後を伝えた「ヒロシマの月」(同60号、1993年刊)の2作が、原爆を扱った作品のすべて。

 「直感で書ける文学はある。だが原爆文学となると、どうだろうか。少なくとも私は書きたいと思わない」(敬称略)

 <メモ>
「重い車」は、「群像」の1963年新人賞受賞作。同年5月号に初出。作品集「<八月六日>を描く」(1970年、文化評論出版刊)、「日本の原爆文学(10)」(1983年、ほるぷ出版刊)にも収録された。

 12歳の「おら」は、戦争で父親を、8年前の原爆で母親を失い、原爆症の不安を抱える祖父と共に暮らす。復員してきたおじの鉄は「おら」にナイフを残し、女と出奔する。「おら」の唯一の願いは、屋台の商売の邪魔にならないよう「今晩、雨が降らないこと」だけだ。人物の内面の独白の度にめまぐるしく人称が変化、被爆時の記憶がフラッシュバックされる。

 文沢隆一は1928年、広島県山県郡千代田町生まれ。廿日市市在住。

(2000年8月2日朝刊掲載)

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