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連載・特集

原爆文学21世紀へ 前編 作品―そのとき・それから <4>

■記者 梅原勝己

古浦千穂子と「風化の底」 病気と向かい合う「死んだはず」の私

 1982年、当時の西ドイツ・ケルンで行われた国際文学者平和会議。夜の朗読会で、千人近い聴衆の前で古浦千穂子は「風化の底」を朗読した。「あがっていたこともあるけど、反応がよく分からないの。原爆のことよりも、恋愛小説として評価されたみたい」

 朗読会に限らず、会議の主潮をなしたのは、渡独する前に予想していた非核や平和ではなく、主にアジア・アフリカの作家から提起された先進国の搾取による貧困や飢餓の訴えだった。「被爆者の痛みは、全世界の人にとって大きな問題だけど、唯一の問題ではないということ。むしろ身近に飢えを抱えている地域では、心に届く順序が違うと思うの。でも、一人の作家が地球上のあらゆる困難を引き受けて何かを書けるかしら、と思うと暗い気持ちになったのよ」

 心の暗雲を払ってくれたのは、同行した作家・堀田善衛がケルン大聖堂の前で掛けてくれた一言だった。「聖堂のせん塔の上から見下ろす光景がすべてではない。鳥観するだけでは見えないものもある。今この舗道を歩いていて見えるものを書けばいいんだって」

 原爆投下の時は、7キロ離れた広島県安芸郡海田町の女子学生だった。爆心地近くに出かけていた母は寝込み、通学していた女学校には、次々と異様な惨状を見せる被災者が送り込まれてきた。「大変なことが起こった」という驚きが恐怖に変わったのは、翌年になって、被災調書作成のため自宅を訪れた警察官から「死んだのはチホ子さんですね」と告げられてからだ。手帳には2本の線で消された「チホ子」の文字。手続きの混乱で、よその家の「チホ子」と取り違えられたらしい。「学校で見た、包帯に膿(うみ)がにじみ出ている被災者は私であったとしても、何の不思議もないと思えたのよ」

 「死んだ筈のチホ子が生きていて/生きている筈の/あの娘が死んでいる」と書かれた詩「死人のリスト」が詩誌「われらのうた」8号に載ったのは1955年。「風化の底」では「生きている筈のチホ子」の、ありえたかもしれない人生を描いた。その主人公と恋人の新聞記者が、死の床にある被爆者を見舞うシーンから書き起こされる。「あの人はもう物だ」と突き放す恋人と、気持ちの整理ができない主人公。その被爆者の造形には、原爆歌人・正田篠枝のイメージを重ねた。「正田さんの死に行く姿を正視できなくて、見舞いの足が向かなかったの」

 文学の友人を介して正田と知り合うのは、正田の死の2年前。がんが進行していった時、人間として普通に感じるおびえや、他者への疑心を示すようになって、それがののしりへと変わる一瞬も、つぶさに見た。

 「彼女が文学の世界で昇華させた感情とは、まったく別の一面。普通の人間として死んでいこうとしているのに、私は偉大な歌人の死だけを期待していたのよ」

 自身のがんが発覚したのは13年前。昨年、作中の恋人カツヒコのモデルではないが「性格は非常によく似ている」新聞記者だった夫の孝彦を、がんで亡くした。

 「これから書くテーマは、ケルンの舗道で感じたように、病気を普通に受け入れていく自分自身。それが、『死んだ筈のチホ子』だった私の役目だと思うから」(敬称略)

 <メモ>
「風化の底」は、「新潮」1967年12月号に初出。「<八月六日>を描く第二集」(1971年、文化評論出版刊)、「日本の原爆文学(11)」(1983年、ほるぷ出版刊)、作品集「風迷う」(1977年、湯川書房刊)にも収録された。

 ヒロシマの取材を黙々とこなす新聞記者の恋人に、ひかれながらも被爆者としてのこだわりから、どこかで距離を感じている「私」。「君はね、僕をすら信じようとしない」となじる恋人に、「私」は精霊流しの灯ろうに「母さん、父さん、供養、懸命に生きています」と書くことでこたえようとする。

 古浦千穂子は1931年、広島県安芸郡海田町生まれ。現住所も同じ。

(2000年8月3日朝刊掲載)

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