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連載・特集

原爆文学21世紀へ 前編 作品―そのとき・それから <5>

■記者 梅原勝己

寺島洋一と「峠三吉とその時代序説」 難民の視線欠いた「救済者」に違和感

 峠三吉が亡くなった1953年、寺島洋一は京都大の学生で、島陽二のペンネームで反体制的な詩を書いていた。峠についてはほとんど知らず、同じキャンパスで見かけた大島渚が、後に「日本の夜と霧」で描くような思想的混迷の中にいた。個人的にも、結核発症で就職もできず、大学院への進学も家庭の事情が許さず、「出口なし」の状況にあった。「『難民』というキーワードで、物事を見るようになったのはそのころから。私自身が社会からの難民だった」

 上海からの引き揚げ体験や、父方の古里・広島で見聞きした被爆者の戦後の不如意なくらしも、「難民」に突きつけられた試練と思われた。新設されたばかりの家庭裁判所調査官への就職。広島へ帰ってからも、峠の死後廃刊した「われらの詩」を引き継いだ「われらのうた」に参加してからも、「難民」の視線が生きる指針だった。しかし、というべきか、だからこそなのか、峠の詩には最初から違和感を感じた。

 「彼の作品の多くは、難民の救済者の立場で書かれている。高い所から見晴らして、揺すったり、励ましたりするが、難民たちのうめき、恨み、どうしようもない無力感には目が届かないんだ」

 さまざまな文化活動でリーダーシップをとることが多かった峠を、死後「聖人」のような存在として扱う空気にもなじめなかった。峠三吉夫人の和子(前夫との籍が抜けなかったため戸籍上は原田姓)から「三吉の評伝を書いてほしい」と依頼され、三吉の日記を預かったのは五九年ごろ。その日記には和子夫人によるものと思われる改ざんの跡があった。峠が和子夫人以外の女性に心を引かれる部分で特に目立った。「プライバシーの保護というより、『聖人』としての峠を傷つけてはならないという干渉があらわだった。人間としての峠には目をつぶれというわけだ」

 寺島は執筆を断念、日記を和子夫人に返す。和子夫人は峠の代わりに「難民の救済者」として核廃絶を訴え、「三吉の遺志を継ぐ峠夫人」として積極的にパフォーマンスの表舞台に立ち続けるが、六五年に不可解な自殺を遂げる。それらの体験と、考察を織り込んで、峠を軸に自らの混迷の時代を明らかにしようとする「序説」に取り掛かるのはその八年後だった。

 続編の「雲雀と少年」では、「解釈や主情を加えなかった」原民喜を評価。また、民喜に先立つことで「永遠の母」となった貞恵夫人と、生き延びることで「汚れちまった母」となった和子夫人を対比し、「母性としての妻」を持った二人の文学者の人生を探った。

 一方で、「われらの詩」時代から峠と共に詩作しながら、常に運動の外側に立ち、詩人としての名声に無縁だった被爆詩人・望月久の詩業を発掘。亡くなった九六年に、詩集を完成させた。

 妹の原爆弔慰金でミシンを買うべきかどうかとまどい、「兵隊もあかん」「商売もあかん」と不器用な生き方を嘆く望月の作品は、峠が素通りした難民の世界そのものだった。詩集のタイトル「難民」は、寺島が考え、本人の了解を得て決めた。「峠が持っていたある種のエリート意識と対極にあるのが望月。峠が導こうとした世界から常にこぼれ続けた人生を愛さずにはいられない」

 自ら編集する広島KJ法研究会の機関紙「地平線」に、23号(1997年刊)から連載を続けている評伝「『難民』の詩人・望月久」は、今年10月刊行予定の29号で7回目を迎える。(敬称略)=前編・おわり=

 <メモ>
「峠三吉とその時代序説」は、「安芸文学」34号(1973年七月刊)の「特集・表現の中のヒロシマ2」と「同」35号(1973年12月刊)「特集・表現の中のヒロシマ3」に連載。「雲雀と少年・原民喜と峠三吉における愛と死」は「同」43号(1978年十月刊)の「特集・表現の中のヒロシマ6」に寄稿。

 原爆文学に関する評論はほかに、「フィールドワーク・原爆関係文献」(梶葉6号、1995年刊)など。「望月久詩集・難民」は叢書見る刊。  寺島洋一は、1932年北九州市生まれ。小学2年の時に上海へ。戦後広島に引き揚げ、現在は広島市安芸区在住。

(2000年8月5日朝刊掲載)

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