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連載・特集

原爆文学21世紀へ 後編 作品―そのとき・それから <2>

■記者 梅原勝己

小久保均と「夏の刻印」 復興に背を向けて心の奥に目向ける

 「原爆文学研究会たらいうのが今度できるそうであるが…」という文章を織りこんだ志条みよ子の「原爆文学について」というエッセーが、中国新聞に掲載されたのが1953年1月25日。3月中旬まで18編の論考が紙面に寄せられた「第一次原爆文学論争」の発端だった。

 「原爆文学研究会たら」は、正しくは「原爆の文学研究会」。小久保均はその同人の立場から2月4日、「再び原爆文学について」で論戦に加わった。論点は「原爆を売り物にする姿勢」と「悲惨な体験に寄りかかる表現」の2つ。「原爆はエスペラントと同じように世界共通言語になりうるテーマ。広島で文学を志す人間が『現地直送』の素材に積極的にかかわるのは当然だ。売り物にしたっていい、というのが当時の僕の立脚点。ただ、手記の延長のような、事実でねじ伏せるスタイルは、もう売り物にはならないんだ、ということを言った」

 そのとき、小久保の脳裏に「原爆文学の可能性」としてイメージされていたのは、当時愛読していたカミュの「ペスト」のような世界。地球上の架空の町に、人類の災厄のメタファーとして押し寄せるペスト(原爆)。その不条理に不屈の闘志で立ち向かう人々…。「僕は20代で気負いもあった。分かりやすい図式だったけど、それが研究会の総意ではなかったんだ」

 災厄に見舞われた五人の登場人物が生誕、愛憎、殺人といったドラマを繰り広げる「聖ケ丘」が「広島文学」6号に掲載されるのが、論争直後の1953年4月。前年10月刊の2号が、雑誌「文学界」で山本健吉によって「原爆のゲの字も出ていない」と酷評されたことに対する、小久保たち「広島文学」若手会員の回答だった。研究会自体も、その批評が契機になって梶山季之が若手会員に呼びかけて結成されたものだったが、「原爆書くべし」という以外に文学上の共通理念があるわけではなかった。会合の度に紛糾し、半年もしないうちに自然消滅した。

 「僕自身も『聖ケ丘』の方法を継続しなかった。気がついてみると、僕が思っていた以上に『ヒロシマ』が世界共通言語化してしまい、世間がそれを声高に叫ぶことでナマミの世界を置き去りにして、通俗化していったからだ。広島方言をしゃべる存在でしかない人間のドラマが、押しやられてしまったことに、疑問を感じたんだ」

 小久保作品に登場する被爆者は世の中にかかわることで疲労を深め、屈折を始める。「火の踊り」(「60+α」創刊号、1960年刊)の主人公は、100メートル道路の苗木がすくすく育ち、こぎれいなプロムナードに変ぼうしていく姿を目にしながら「世界中に原爆が落ちればいいんだ」と叫ぶ。その屈折から、地元作家たちがこだわり続けた「沈黙する被爆者」の最も哀切な人物造型と言える「夏の刻印」の白井までは、ごくわずかの距離だ。

 「この作品を書いていたとき、僕は40代になっていた。街は復興したけれど、20代に思い描いていたのとは全く違う、きれいごとの世界ができあがっていた。いら立ちをかみ殺して、心の奥底にのみ目を向ける被爆者という設定が、そのころの心情とぴたりと合わさっていたんだ」

 原爆体験の風化が叫ばれるのと逆に、世界共通言語としての「ヒロシマ」は一人歩きし、ますます肥大していく。「語り部」の映像はビデオで永久保存され、工事で被爆遺物が出てくれば、まるで宝物のような扱いだ。「もし、今、原爆文学研究会たらいうものを、若い人が作るとしたら、僕は、小汚い広島方言にこだわって書き続けろ、と忠告すると思うね」(敬称略)

 <メモ>
 「夏の刻印」は、「文学界」1976年8月号に初出。同名の作品集(昭和出版、1980年刊)のほか、「日本の原爆文学(11)」(1983年、ほるぷ出版刊)にも収録された。被爆後、「面白い目に遭ってはいけない、いい目に遭ってはいけない、幸福になってはいけない」という生活信条をかたくなに崩さなかった白井が死ぬ。旧制中学校のクラスメートが彼について語り合い、「生きたくない」人生を誠実に生き続けた男の生涯を追悼する。

 小久保均は1930年、広島市生まれ。原爆投下時は、熊本の陸軍幼年学校に在学中だった。原爆をテーマにした作品はほかに、「夏」(広島文学3号、1952年刊)「きょうも青空」(早稲田文学1969年8月号)「火の幻影」(すばる1980年10月号)など。広島市在住。

(2000年9月26日朝刊掲載)

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