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連載・特集

原爆文学21世紀へ 後編 作品―そのとき・それから <3> 

■記者 梅原勝己

石田耕治と「雲の記憶」 根底に個人的体験 手法実験興味ない

 1945年8月5日、後に「爆心地」と呼ばれることになる広島市中心部の映画館で、旧制中学4年生だった石田耕治は、「清水の次郎長」が主人公の映画を見た。「神経衰弱」という診断書をもらい、学徒動員先の南観音町の工場に通わなくなって数日がたっていた。観客の列に並ぶときには、ひやひやし通しだった記憶がある。父親の着古しの国民服を着て、工員帽をかぶっていたが、気まぐれな憲兵に問い詰められるのを恐れていたからだ。

 「休学の原因は、動員先の人間関係にくたびれ果てていたからだ。平然としていたわけじゃない。国中が戦争続行のために理性を失っている時期、そうしたかたちで休学することは未来が完全に閉ざされてしまう恐怖と裏表だ。映画館に行ったのは、絶望と不安と孤独が混ざった、やけくそな行動だった。私の心を占めていたのは個人的事情だったが、全世界を敵に回したような気分だった。だから、画面を見ながら、何もかもめちゃくちゃになってしまえばいいのだ、とつぶやいていたことだけ、よく覚えている」

 「めちゃくちゃになってしまう」事態は、その半日後に起こる。爆心地から3キロの己斐上町の自宅で、寝ぼけまなこをこすりながら起き上がった石田の頭にパニックが訪れる。近くの小学校で被災者の群れと出会うのは、そのすぐ後だ。爆心地から1キロの動員先で被災した中学1年の弟は、やけどで見分けが付かないほど顔をはらして家までたどり着くが、翌日に息を引き取る。「驚きと悲しみとおびえが入り交じった感情が去ると、この事態をどう解釈したらいいのか、という焼け付くような焦りが頭をもたげてきたんだ」

 その間も、小学校の校庭での作業は続く。次々と運び込まれる被災者が「片付けねばならないモノ」と化したときも、手足だけは動く。これは何なのだと考える頭を置き去りにして、遺体が積み上がっていく営みが延々と繰り返される。「広島」「原爆」の表記が一カ所も出てこない「雲の記憶」には、このときの経験が色濃く反映された。「本当に悲しいと思ったことを『涙を流した』と表現してもしらじらしいのと同じ。頭で知った事実ではなく、手足が感じた情景を描いたら、そうなったんだ」

 頭の中の空白の時間が去った後、「何で自分が生きているんだろう」という疑問に苦しんだ。「被爆の前日まで、私は死んだ方がましだとまで思い詰めていた。そんなことは思ってもいなかった弟や、懸命に日々を送っていただろう人々が燃えかすのようにモノとなっていくのを見た。その情景と意味を明らかにするために、彼らに代わって生き続けようと考えることで、疑問に決着をつけたんだ」

 旧制広島高校時代に、教官の羽白幸雄が復刊させた「移動風景」や、学生たちが作った「エスポワール」に習作を発表後、1年間の銀行勤務をなげうち上京。「飢えの原因」(広島文学12号、1956年刊)、「靴」(群像1959年6月号)を経て「雲の記憶」に至る作風は、ヒロシマの背景を色濃く反映させながら、素朴リアリズム的な次元を突き抜けた心象風景を定着させた。新たな原爆文学の地平を示すものとして評価されたが…。

 「文学の手法上の実験自体に、それほど興味はない。私の作品の根底にあるのは、個人的体験。私の手足が覚えている情景だ。作品が実験的に見えるのは、体験そのものが抽象的だったから。その情景を書き切った、と思ったことは、まだない」(敬称略)

 <メモ>
 「雲の記憶」は、「群像」1959年9月号に初出。「<八月六日>を描く」(1970年、文化評論出版刊)、「日本の原爆文学(10)」(1983年、ほるぷ出版刊)にも収録された。「僕」と連れの男は、際限なく運ばれてくる患者を校庭の隅に張られたテントへ運び入れ、死者を運び出す作業を続けている。出産のために市の南の実家に戻っている妻の元に帰った「僕」は昼間の出来事を振り返ってみる。ふと見ると、妻の五本の指が曲がり、皮膚が醜く盛り上がっているのに気付く。幻想の世界と小説の中の現実が複雑に入り組み、不気味な実在感を醸す。

 石田耕治は1930年、広島市生まれ。原爆をテーマにした作品はほかに、「黄色い沼」(安芸文学20号、1966年刊)「この日」(海1983年9月号)、「そして、」(海燕1989年3月号)、「相生橋」(海燕1992年9月号)など。横浜市在住。

(2000年9月27日朝刊掲載)

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