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連載・特集

原爆文学21世紀へ 後編 作品―そのとき・それから <4>

■記者 梅原勝己

田端展と「被爆舞踏曲」 事実を忠実に伝え、あの日の死者追悼

 広島市が翌年に市制100周年を迎えようとする1988年、記念イベントとして「海と島の博覧会」が開かれることになったという新聞記事を読んで、田端展はひっかかるものを感じた。「広島市の100周年を記念するのに、ふさわしいのは『被爆博』だろう、と思ったんだ。もっと広く知ってもらわなくちゃならないことが、あるはずだってね」

 広島工専の学生時代に体験した被爆の模様を思い起こしてみた。焼けただれた人間の皮膚やがれきの積み重なった様子なら資料館や書物で見ることができる。しかし、人間の皮膚が焼けるにおいや、光線で赤さびたり、白茶けたりした建物の光沢となると、体験した人の脳裏にしか残っていない。「においも色も空気も…と再現プランを練っているうちに、実際には実現は不可能だと気付いたんだ。技術的にじゃなくて、実はだれもそんなことを知りたくないんだという事実のためにさ」

 1953年に発表された「市郎」(広島文学7号)で田端は、ケロイドを持つ20代の女性被爆者に<原爆乙女って、問題にしているけど、ケロイド症の彼女たちだって、あんなに大勢の人が、叫び声をあげる暇もなしに死んでいったことから比べれば、ほんのかすり傷を受けたようなものね>と語らせている。40年後の「被爆舞踏曲」では、60代の女性被爆者が<世間一般が、ケロイドや原爆古老に対して同情するでしょう。だけど、私は、頬っぺたに傷したくらいや、いままで生きることができた年寄りの被爆なんて、被爆のうちに入らないと思うわ>と語る。

 醜いケロイドや、放射能の恐怖のためにゆがめられた人生を歩む被爆者の姿なら多くの作品に描かれてきた。それらに無条件に共感を強いる空気が支配的だったのは、「あの日」に死んでしまった人たちを思い出したくない意識が働いているのだ、というのが田端の考えだ。「科学にねじ伏せられた存在を認めるのは苦しいことだからね。あの日、人々はムシケラのように死んだんだ。つらくても、そのことから始める小説が書かれなければならないと僕は思ったんだ」

 これまでの田端作品の主人公は、ほぼ例外なく心優しい。ときに優柔不断なほどに態度を保留する。だが、「被爆舞踏曲」の三矢丹は「僕はね、白状するが、原爆が広島に落とされたとき、ものすごく感動したんだ。人類の偉大な科学技術力にね」と語る人物として描かれる。同様の人物はかつて一度「失楽の塔」(歯車6号、1958年刊)に登場するが、連載1回目を出した後、中断される。「語り手として、そのような人物が必要なのは分かっていたんだが、そのときは書けなかった。放射能障害で死んでいったり、病気のための生活苦が今そこにあるのに、あの日の死者をこそ思え、とは言えなかったんだ」

 放射能漏れしているロボットに田端と同世代の女性被爆者が抱きつき「私たちを処分して! そして被爆博をオープンして!」と叫ぶラストシーンに、積年の思いのすべてを込めた。「僕も70歳を過ぎた。被爆した、しないにかかわらず、よくここまで生きてこれたなあ、という感慨を持つ年齢だ。『あの日の死者』を悼むことは、今僕らが共有している平和を祈ることではなく、あの日の事実を忠実に伝えることだと僕は思っている」(敬称略)

 <メモ>
 「被爆舞踏曲」は、「梶葉」3号(1995年刊)に初出。同年、単行本(溪水社刊)に収録した。被爆博覧会のプロデューサーに指名されたイベント会社社員が、原子力エネルギーで動くロボットをはじめ最新技術を駆使し、被爆時の街を再現することに執念を燃やす。その時代の思想や通念をインプットされたロボットが、昭和天皇の死を知って腹を切ったことから、放射能が漏れる事件が起こる。

 田端展は1927年、広島市生まれ。爆心地から2キロの大州で被爆。その日は縮景園で夜を明かした。原爆をテーマにした作品はほかに、「夜の虚像」(広島文庫2号、1969年刊)「歩数計」(新日本文学2000年5月号)など。広島市在住。

(2000年9月28日朝刊掲載)

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