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連載・特集

原爆文学21世紀へ 後編 作品―そのとき・それから <5>

■記者 梅原勝己

岩崎清一郎と「ヒロシマの思想と表現」 通念にとらわれず、人間見つめた民喜

 1945年7月、旧制中学2年生だった岩崎清一郎は、松山市上空から米軍機がまいた伝単(宣伝ビラ)を拾った。ポツダム宣言の13項目を記載、戦後のあるべき民主主義体制下の暮らしについて書かれていた。民主主義については何の想像も浮かばなかったが、「兵隊に行かなくていい世界らしい」ということだけ分かり、身震いするような魅力を覚えた。

 友人や家族からは「持っていると危ないから捨てろ」と忠告されたが、宝物か何かのように、こっそり机の奥にしまった。「それを言ってはいけない、という通念の中で、兵隊に行かなくていい、というのが、当時では普通の隠微な、それでいてまともな願望だったんだ」

 ビキニ水爆実験の直後、大田洋子は「ざまを見ろ。死の灰にまみれてぞくぞくと死んでみるといい」(「半放浪」1956年)と書き、ひんしゅくを買う。「しかし、それは、隠微だが、まともな願望」だったのではないか、と岩崎は評価する。

 むしろ、ケロイドの後遺症を持つ少女の前で「肺腑をつらぬくように…その娘たちの現在と未来のために、人眼もかまわず、泣き伏した」(「残醜点々」1954年)と書いたり、ナメクジを見て原爆死者を連想する「直截(ちょくさい)さ」に、通念に寄りかかる文学の退行を指摘する。「ヒロシマを伝えることが使命感によってなされるのだとしたら、『教える』ことだけが目的になってくる。その構造だけとりあげれば、国防婦人会が、出征兵士を送り出した熱狂とたいした差はないんじゃないか。『戦争に勝ち抜くぞ』という通念が『戦争反対を勝ち取るぞ』に代わっただけだ」

 原爆を扱った児童文学の多くに見られる「無邪気なドグマ」にも、同様な使命感を見る。「原爆の怖さを伝えたい」という善意と表現欲が行き着くのは、「学習によって得た資料とエピソード」を並列し、「平和への願い」へ一直線に結びつける類型的な思考パターンにすぎない。それらの作品の多くは、しばしば、悪玉善玉に明確に区分けされた登場人物が、屈折、混迷、苦渋を経ず、通念を押し付ける展開に終始する。

 「気持ち悪い、いやだ、と思わせる残酷物語であれば足りる場合もある。戦争とは、原爆とは、悪いものだ、と子どもたちに模範解答を引き出す役目だけ担うだろう。作家がリアリティーを欠いた観念だけにとらわれていれば、そんな反応しか、しようがない」

 通念に毒された原爆文学の対極に、原民喜の作品を置く。例えば、大やけどを負った女子学生が夜明けを心待ちにする清冽(せいれつ)なつぶやき。ふとんを敷いた空間をめぐる、つつましやかで人間的ないさかい…。「大田の観察眼とは異なる、人間の美しさを見ようとする視線に貫かれている。使命感とは無縁の、文学の輝きに満ちた描写だけが現れているんだ」

 今年の夏、岩崎はドイツを訪れ、ポツダム宣言が起草された建物の前に立った。「私が感慨を覚えたか? 覚えない。戦前の体験を持ち出して戦後民主主義を回顧することも、今では通念だからね。少なくとも、そんな感傷に酔った作品を読みたいとは思わない。古ぼけたビルだなあ、とは思った。まるで日本の戦後民主主義と、そのあしき通念にとらわれた原爆文学の数々の作品のようにね」(敬称略)

 <メモ>
 「ヒロシマの思想と表現」は、「安芸文学」33号(1972年刊)に初出。「文学」「映像」「思想」の三章に分かれる。「東京からヒロシマの取材に来る人の失望感」に代表される「広島」と「ヒロシマ」のかい離を指摘。時代がかった身ぶりや表現にメスを入れ、文学至上主義の立場から通念にとらわれない発想を擁護した。

 岩崎清一郎は1931年、広島市生まれ。原爆投下時は、父親の転勤に伴い、松山市の郊外にいた。原爆文学についての論考はほかに、「『原爆文学』史論」=作品集「日ぐれの街」(1987年、溪水社刊)に収録=など。小説は「過ぐる夏に」(安芸文学12号、1962年刊)があり、「<八月六日>を描く」(1970年、文化評論出版刊)、「日本の原爆文学(10)」(1983年、ほるぷ出版刊)にも収録された。広島市在住。

(2000年9月30日朝刊掲載)

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