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連載・特集

原爆文学21世紀へ 後編 作品―そのとき・それから <6>

■記者 梅原勝己

越智道雄と「遺贈された生活」 憎しみ忘れぬ心も平和のために有効

 広島市に住んだ1956年から65年までの9年間を、越智道雄は「さや当ての不快さが、単にその場かぎりに終わらず、市街の空気の中にいつまでも残っているような感じ」と形容する。「街は、粘り着くような広島弁で語られるヒロシマ語で充満していた。僕は傍観者であろうとしたけど、うっとうしい気分はずっとまとわりついていたんだ」

 「ヒロシマ語」とは、毎年8月6日が近づくたびに繰り返される、例えば、慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませんから」といった言葉。「なぜ、憎しみや具体的な標的に向けた怒りとして被爆者の言葉が前面に出ないんだろう、と思っていた。それを自然体でこちらに言わせない空気が、自分にまとわりついていることも感じていたんだ」

 原爆の壊滅的な被害を経ても、地域共同体意識は生き残る。戦前の「広島」の地縁を引きずった死者や被災者がいるのであり、抽象的な存在としてのヒバクシャがいるわけではない。

 それに対し、越智作品の登場人物はいずれも家族意識が希薄だ。「遺贈された生活」で描かれる共同生活でも、ある切迫感を抱えた緊張だけが全編を覆う。被爆者である彼らは努めて出自をあいまいにし、感情の抑制のみに支配され現在を生きているように見える。「広島で体験した空気の息苦しさを作品化しようとしたとき、自然とそうなった。ただ、そのうっ屈した気分に立てこもってしまえば、出口がなくなることも、漠然と分かっていたんだ。例えば、アイルランド出身の作家ジョイスがヨーロッパ大陸に出て20世紀文学の傑作『ユリシーズ』を書く前、故郷のダブリンで感じていた閉そく感のようにね」

 大学院生時代、「広大文学」12号(1960年刊)に「ジェイムズ・ジョイスの神秘主義」を発表した後、「ユリシーズ」を思わせる灰原百合亜の筆名で「凾」5号(1962年刊)に「群塔」四百枚を掲載。「鏡と風の逸話」(安芸文学17号、1964年刊)では、ジョイスやドス・パソスなどに学んだ、長い独白や重い文体、自在な場面転換を駆使し、被爆後、行方不明となった父の行方を探る物語を展開した。

 上京後も、「重い影(安芸文学20、21号、1966年刊)、「毛の囲い地」(層6号、1968年刊)、「幼生生活」(文芸1972年9月号)など、地縁から遊離した被爆者の精神の漂泊を描きつづけたが、「三田文学」1974年9月号の「繭の成熟」の後、小説を書くことから遠ざかる。  「このスタイルで小説を書き続けても、ダブリンでの生活をちりばめながら、ジョイスが『ユリシーズ』で一つの神話世界を築いたようには、原爆そのものについての神話は書けない気がしたんだ」

 英文学研究者としてオーストラリアを訪れたり、「WASP」「アメリカ『60年代』への旅」などのルポ取材で渡米したりする機会が「ヒロシマ語にまみれた広島体験」を逆照射する機会を与えてくれた。例えば、真珠湾奇襲について、今も生々しい憎しみを日本人としての自分に浴びせられた体験。

 「広島の地域共同体意識が『憎まない』ヒロシマ語の姿勢を作っているんじゃないか。憎しみを忘れないことが、平和を守るために有効な場合だって、ありうる。比ゆ的な言い方をすれば、人類の危機をもたらす原子爆弾は毎日落ちてるんだ。僕自身は小説で何かを表現する気持ちはなくなったけど、原爆文学が21世紀も力を持ち続けるとしたら、広島という場所を漂白することから始める必要があると思うね」(敬称略)=おわり=

 <メモ>
 「遺贈された生活」は、「展望」1968年4月号に初出。同名の作品集(冬樹社、1977年刊)、「日本の原爆文学(11)」(1983年、ほるぷ出版刊)にも収録された。「不快な粘着感が街路を覆っている街」に戻ってきた「私」は、翻訳を頼んできたのが縁で、同窓の先輩黒崎のサパークラブを手伝う。原爆の爆風で傾いたままの家で、黒崎に拾われた被爆孤児の信子を含めた3人の共同生活が始まる。信子の勤めていた喫茶店の女主人が自殺、店が信子に遺贈されることになったとき、信子の妊娠が分かる。

 越智道雄は1936年、愛媛県今治市生まれ。広島大文学部英文科と同大学院を修了。原爆をテーマにした作品はほかに、「裸の巣」(安芸文学28号、1970年刊)など。今年7月に発刊された「幻想の郊外」(青土社刊)でも、ヒロシマについて触れている。神奈川県相模原市在住。

(2000年10月2日朝刊掲載)

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