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連載・特集

被爆者運動50年 生きていてよかった <2>

■編集委員 西本雅実

原水禁世界大会

 原爆被害者は被爆地・広島でも肩身の狭い思いを強いられた。忌まわしいケロイドが消えない。頼みの親や手塩にかけた子がいない。放射線後障害に襲われても「ブラブラ病」とみられる。街は復興のつち音とともに転住者が増えていた。

 「すみっこで生き残ってきた私たちが」で始まる、1956年3月の広島県原爆被害者大会の宣言からも孤立感が読み取れる。

 と同時に、約300人が集った大会では「被害者の身体・生活面の調査」「治療・完全な就業の機会の提供」「国による原子病治療研究所の設置」などを決議。それらを「国家補償」と位置付け、「原・水爆禁止運動の促進」を誓う。

 ヒロシマの訴えの骨格が被爆から11年の夏を前にようやく固まった。

 宣言は、広島市東区に住む高野(旧姓村戸)由子さん(73)が前年の原水爆禁止世界大会で証言した後に漏らした「生きていてよかった」の言葉を盛り込み、締めている。

 「私たちの苦難と復活とが新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から『生きていてよかった』とよろこぶことができるでしょう」

 建物疎開作業中に爆心地から1.5キロの昭和町(中区)で閃光(せんこう)を浴びた村戸さんは、学業を終えると和裁を習いに出た。

社会の片隅で

 「手に職を」と思いつつ、「家の片隅でくよくよ」する日々でもあった。「あの日」変わり果てた姿となった村戸さんを矢賀町(東区)の救護所まで運んだ叔父は、彼女が幼いころ亡くなった両親の分まで「一生懸命に生きていれば、きっといいことがある」と励ました。

 20歳前のある日、市内電車の中で声を掛けられ、広島流川教会に誘われる。被爆者の谷本清牧師(1986年死去)は、心身に傷を負った若い女性を集めて会をつくり、被爆者支援を世間に喚起していた。

 彼女らは心ならずも「原爆乙女」と呼ばれ、被爆者の「代名詞」ともなる。東京、大阪の病院に招かれた治療は全国的に話題を呼ぶ。これが地元を刺激し、1952年の被爆者無料検診へとつながった。

 この年、米軍の占領が明けた。会のメンバーは、広島出身の新藤兼人監督が被爆地でロケをした「原爆の子」に協力し、村戸さんも祈りをささげる場面に出た。振り返って言う。

 「聖書を読み、皆さんとふれあい慰め合っても、私は自分を取り戻せた気になれなかった」。煩もんが続いた。それでも会で活動を続けるうち、原爆ドームそばで土産店を営み、被爆者グループを先駆けてつくった吉川清さん(1986年死去)らヒロシマからの運動を形づくっていく人たちと出会う。

背押され証言

 決定的だったのは藤居平一さんとの出会い。藤居さんは原爆で父親を失い、家業の銘木店が傾きながらも被爆者救援に心血を注いだ。1956年の大会を経て広島県原爆被害者団体協議会、続く日本被団協の組織化を実現させた。「原爆被害者」の名称は、生存者にとどまらず死没者とその遺族を含める考えからだった。

 「人を思いやり、信頼できる方でした」。10年前に80歳で逝った被団協の生みの親の横顔をそう表した。その藤居さんに背中を押され、人前で初めて証言したのが原水爆禁止世界大会。

 中国新聞の1955年8月8日付記事から、当時23歳の村戸さんの訴えを引く。

 「この私の姿をごらんになってください。このような運命をほかにもうつくり出したくない念でいっぱいです。われわれだけでもうたくさんです。もう戦争は絶対にいやです」

 第一会場となった平和記念公園内の市公会堂を埋めた国内外の参加者からの激励と連帯の拍手が、小柄な村戸さんを包んだ。演壇を降りると、「生きていてよかった」の言葉が思わず口を突いて出た。

 当時の記事を手にこう語る。「社会の片隅にいた私という存在が認められた、独りではないとの喜びが、あの言葉となって表れたと思います」

 被爆者としての運動に参加するうち「自分が救われ」、「前向きに生きる勇気」が生まれてきた。

 冒頭の大会から2日後、村戸さんは「原爆被害者国会請願団」として当時の鳩山一郎首相らに会い、願いをぶつける。

(2006年7月4日朝刊掲載)

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