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連載・特集

被爆者運動50年 生きていてよかった <3>

■編集委員 西本雅実

国会請願

 「もはや戦後ではない」。政府の経済白書が宣言した1956年、広島・長崎の被爆者の苦しみと、力強く生きようとする姿をとらえた映画が製作される。「生きていてよかった」。前年に発足した原水爆禁止日本協議会が製作費を工面し、ドキュメンタリーの名作を戦前から手掛けた亀井文夫が監督。49分のモノクロ作品ながら、広島をはじめ全国425カ所で上映され、被爆者援護への世論を後押しした。

 広島市東区に住む高野(旧姓村戸)由子さん(73)は「電車のシーンのはず…」とビデオ化された作品で自身と対面した。

 カメラは、原爆ドーム前を走る市内電車の乗客として写し、手術しても隆起したケロイドをとらえる。そして終盤、「歓迎 原爆被害者の国会請願団」ののぼりに囲まれた一群に交じる村戸さんの顔を再びクローズアップし、訴えの声が流れる。

 「生き残った者の心の叫びは、自分の体を完全な昔の自分の姿に治したい気持ちでいっぱいです。しかし、それよりも先に私たちのこのような惨劇を世界のどこにも繰り返させたくない気持ちでいっぱいです」

 ビデオを見終えてひと息つく表情を浮かべ、こう話した。「確かに私の声ですね。本当に皆さん同じ気持ちでした」

 1956年3月、広島・長崎の被爆者ら約50人が政府・国会に出向き、訴えを直接ぶつけた。広島駅発の急行「安芸」でも17時間余りの長旅。衆参両院を回り、「被害者の治療費・援護費の国庫負担」「太平洋地域での水爆実験禁止」を求めた。

面会は約5分

 続いて、村戸さんや、映画にも登場する長崎の山口仙二さん(現・日本被団協代表委員)ら5人が、鳩山一郎首相と会う。前年の保守合同による自民党の誕生で政権をみたび率いた首相は「できるだけのことはするつもり」と答えた、と報じられている。面会は約5分だった。  翌日、村戸さんたちは首相私邸を訪ねて薫夫人にも面会した。昨年に出た「鳩山一郎・薫日記」には「午後2時、広島の原爆被害者婦人たち」の記述がある。

 「被爆者に会うのは初めてということで同情的だったと思います…」。カステラを振る舞われた方が記憶に残る。

 広島県海田町に住む阿部静子さん(79)は、幼子を連れて上京した。そうまでして請願団に加わったのは「原爆への怒り」から。新婚間もない勤労奉仕で出た平塚町(中区)の建物疎開作業中に体を焼かれた。「手術をしても肌の傷は消えない。何度死のうかと思った胸のうちを聞いてもらいたかった」

「米国に弱い」

 阿部さんには、広島ゆかりの実力者の私邸を訪ねて耳にした一言が今も記憶に残っていた。4年後に首相となる池田勇人は「日本は米国に弱いからね」とボソッと話したという。「私たちが10年もほうっておかれ、援護が遠いわけだと思いました。それであの詩ができました」。広島への夜汽車の中でザラ紙に鉛筆を走らせていた。

 「悲しみに苦しみに 笑いを遠く忘れた被災者の上に 午前10時の陽射しのような暖かい手を 生きていてよかったと思いつづけられるように」

 期待を膨らませた分、一行の失望も大きかった。「帰ってからみんなが本気になってやりだしたわけです」。請願団長を務めた藤居平一さん(1996年死去)の生前の回顧である。

 原爆は街ごとあらゆる家族、世代、階層を根こそぎなぎ倒した。だが10年がたつ中で暮らし向きの「再建」ぶりも違ってきた。被害者組織をつくっても、おのずと行動はばらばらに。国を動かすには一本化が要る―。その考えが、期待外れに終わった請願を機に広がる。

 広島県被団協は2カ月後の5月、日本被団協は8月に長崎市であった第2回原水禁世界大会に集う中で結成された。

 大会では、阿部さんの詩が朗読され、「広島被爆者代表」として登壇した村戸さんが「私たちが生きなければだれがこの運動にたてるでしょう」(大会議事速報)と決意を述べた。白血病などの「原爆症」による死者が続いていた。

 この年の11月、広島市は生存者の初の調査状況をまとめた。生存する原爆被害者は8万4932人で人口の25%、1万4199人が治療を求めた。被爆者の戦後は終わっていなかった。

(2006年7月6日朝刊掲載)

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