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連載・特集

被爆者運動50年 生きていてよかった <4>

■編集委員 西本雅実

証言の旅

 「原子爆弾の被爆者が今なお置かれている健康上の特別の状態にかんがみ、国が被爆者に対し健康診断及(およ)び医療を行う」。1957年4月に原爆医療法が施行された。親や子、最愛の人たちを奪われ、放射線障害の発症の恐れが続く中、ようやく援護が緒に就いた。

 広島市東区に住む高野(旧姓村戸)由子さん(73)は、「原爆被害者援護法」「原・水爆実験禁止」を求めて、前年に三度も片道17時間余の列車に揺られて上京した。新聞報道や資料で確認できた限り、3月に国会請願団として鳩山一郎首相夫妻に面会、広島県被団協結成の翌6月には厚生省に陳情、日本被団協結成の翌9月には朝日新聞東京本社なども回っていた。

 「生きていてよかった」。村戸さんが1955年の原水禁世界大会で証言した直後に胸の奥からわき出た、そう思える世界の実現を誓った運動への「使命感」からだったのか―。こう答える。

 「自分自身をさらけ出したのは被爆者をつくらない、この悲しみを世界の誰にもしてほしくない、その気持ちがなければ一生懸命になれかったと思います」

 彼女は、欧州各国でいち早く被爆体験を証言した1人。だが証言の旅にも困難がつきまとった。政府は、原水禁運動と連携した被爆者らの訴えを「反米運動」ともみたからだ。

 1957年3月、英国の南太平洋クリスマス島での水爆実験計画が伝わる。核実験に抗議して、平和記念公園の原爆慰霊碑前で続く被爆者らの座り込みはこれを機に起こった。日本原水協は米英ソ連の核保有国に「国民使節団」の派遣を決め、日本被団協代表員で広島大教授の森滝市郎さん=当時(56)=らが選ばれ6月末、広島をたった。

東京で足止め

 ところが東京で足止めされた。外務省は「米英に行くことは絶対反対」(森滝さんの1957年7月5日の日記)と旅券を交付しようとしなかった。交付問題は一気に社会の関心を呼ぶ。

 村戸さんは支援のため急きょ上京した。東京駅で撮られた報道写真には、「全国被害者代表」ののぼりを背に先頭を歩く姿が写る。交付要求の署名簿には、記録映画「生きていてよかった」に感銘してカンパを呼び掛け、村戸さんが面談した徳川夢声や武者小路実篤をはじめ、映画スターも名を連ねた。被爆実態を伝える活動に共感する広範な世論がうかがえる。旅券は8月1日交付され、森滝さんは英国へと向かった。

 「その前に決まっていた私の欧州派遣が後になって、森滝さんが気遣ってくださったのを覚えています」。彼女にとって被爆者運動は、人間としての思いを共有する行為でもあった。

 村戸さんは翌1958年3月、スウェーデンでの「世界青年学生平和友好祭準備会」に全学連国際部長らと出席し、イタリア、西ドイツ、フランス、チェコ、ハンガリーも回った。「欧州の人たちは原水爆の恐ろしさを観念的に知っているが、被害の実相を知らない」(中国新聞5月13日付)。証言の旅を終えて戻った広島での感想だ。

帰国後に就職

 「その時の旅券です」。探し出したパスポートを開けた。交付は日本出発の3日前。「外務省において簡易交付」のスタンプが押してあった。その年秋には西独の労組に招かれ、友人の被爆女性と現地の原水禁集会などに参加した。外務省は「村戸さんの国外での言動が好ましくなかった」(11月7日付)と再び旅券を出し渋っている。

 「私を見れば海外の人も原爆がどんなものか分かる。一生懸命な気持ちだけで、政府が色眼鏡で見ていたことに気が回らなかった」。旅券の「特徴 顔面に火傷跡」との心ない記載にも、「傷跡は今より生々しかったし、それで派遣されたわけですから」。受け流すように振り返った。

 被爆者運動に立つうちに強さを獲得していた。2度目の渡欧から戻り、被爆者治療の先駆けの1人、原田東岷さん(1999年死去)の病院に勤める。生活も自立した。

 村戸さんは、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」(1965年初版)で「屈服しない被爆者の一典型」と表されている。被爆20年の夏、NHK広島放送局の特集番組にも出演した。しかし運動からは離れた。証言の契機となった原水禁世界大会が政党・労組の思惑や対立から分裂したことが、彼女を遠ざけた。

(2006年7月7日朝刊掲載)

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