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連載・特集

被爆者運動50年 生きていてよかった <5> 

■編集委員 西本雅実

友との語らい

 「被爆者としての訴えを利用されるのは、私には耐えられなかった」。広島市東区に住む高野(旧姓村戸)由子さん(73)は、被爆者運動の一線を離れた当時を心苦しげに語った。足が遠のくわけがあった。車の両輪にも例えられた原水禁運動の分裂である。

 広島・長崎・ビキニの「原水爆体験」から国民的な共感のうちに起こった原水禁運動は、日米安全保障条約の改定をめぐり列島が揺れた1960年を境に、政党・労組のイデオロギー闘争へと変質していく。村戸さんが「生きていてよかった」と感激のうちに証言を終えた原水禁世界大会は、主導権争いの舞台となった。

 「いかなる国の核実験にも反対する」「米帝国主義の核実験と同列に論じるのは誤り」。社会、共産両党の路線対立が先鋭化した1963年8月、大会はついに分裂した。しかも全学連が会場となった原爆慰霊碑前を占拠して警官隊が出動した。平和の実現を共に誓うはずの公園が、路線が違うというだけで相手を非難し合う憎悪の場と化した。

市民も離れる

 「排除の論理、かたくなな理論。党派のエゴが被爆者を置き去りにし、市民からも背を向けられた」。広島県原水協事務局次長として混乱の渦中にいた、広島大名誉教授の北西允さん(80)の述懐である。

 原水禁運動の分裂をきっかけに1964年、被爆地広島は同名の2つの県被団協に分かれて今に至る。むき出しの政治色が被爆者を巻き込み、引き裂いた。村戸さんはどちらの団体にもくみせず、運動の一線を去るとともにマスコミの取材も断るようになった。あえて「もの言わぬ」多くの被爆者の列に戻った。

 日本被団協は、原水禁運動の分裂と低迷の余波を受けながら、援護法制定をそれでも粘り強く訴えた。被爆50年を控えた1994年12月、自民、社会などの連立政権下でようやく「被爆者援護法」が成立した。

 だが求めた「国家補償」は退けられた。「原爆被害者」の名称に込めた死没者遺族を含むすべての被害者への補償には遠かった。

 歴代政府は、「唯一の被爆国」を唱えながら米国の「核の傘」による安全保障に頼る。被爆体験から起こった草の根の平和運動は、戦争の記憶が薄れる時の風化にさらされる。被爆者の平均年齢は73歳を数え、運動の活力はおのずと弱まる。

 高野さんは「運動を離れた私は批判できません」と一呼吸置き、こう語った。

 「運動をしてくださる人がいたから援護法ができ、私たちの体験と願いを伝えていただいているのですから」。自分をさらけ出しての訴えは世間の注目を集めれば中傷も買う。先頭に立った被爆者たちはそれをも引き受けてきたのを知るからだ。

 広島市内の病院で事務員として働くうち、「私を一人の女性としてみてくれた」2歳年上の会社勤めの男性と知り合い結婚。子どもをさずかり、家庭を大切に生きてきた。運動を離れてからの40年間、表だった発言こそしなかったが、「無関心ではいられない」気持ちだった。

心からの訴え

 「原爆からは、非戦闘員の学徒も外国人(韓国・朝鮮人)もみな逃げようがなかった。60年たっても放射能の恐怖が体内にある。戦争がなければこの悲しみはなかったし、二度とあってはならない」「なりたくてなったんじゃない被爆者の訴えは、どこかの国を責めたり、誰かのための運動ではない。人間としての心からの訴え」。半世紀に及ぶ被爆者運動について、今回取材に応じた高野さんの答えである。

 インタビューに一区切りがついた6月中旬、高野さんを中区の平和記念公園に誘い、広島県海田町に住む阿部静子さん(79)と合流した。阿部さんは50歳をすぎて修学旅行生らに被爆体験を伝える活動を始めた。2人は、半世紀前の「原爆被害者国会請願団」で出会い、今は絵手紙を交わす仲。

 食事の席で失礼を顧みず尋ねた。運動に参加してよかったか、と。阿部さんの「勇気を得ました」の言葉に、高野さんは「本当にそうね」と笑みを浮かべて相づちをうった。「生きていてよかった」と思えるよう自らが努め、今日を迎えたのだ。=おわり

(2006年7月8日朝刊掲載)

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