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連載・特集

対談 被爆者運動50年 ヒロシマの平和思想と展望 <1>

前広島市長 平岡敬さん(78) 
広島女学院大教授 宇吹暁さん(59) 

 被爆地ヒロシマは、私たちにどんなことを問い掛けているのか。訴えは世代や国境を超えてどこまで伝わっているのか。「被爆者運動50年」からヒロシマの平和観を探るシリーズの今回は、ゆかりの4人の識者対談を通じて考える。初回は、前広島市長の平岡敬さん(78)と広島女学院大教授の宇吹暁さん(59)。平岡さんは、2期8年間の市長時代に平和宣言で日本の戦争責任を指摘し、米国の「核の傘」からの脱却を説いた。宇吹さんは、原爆関係資料の収集や被爆者の手記の研究で知られる。対談するのは初めてという二人に、ヒロシマをめぐる平和思想の変遷と展望を語り合ってもらった。<文中敬称略>


■編集委員 西本雅実


在韓被爆者を意識せず 平岡さん
被爆20年 思想化始まる 宇吹さん

 ―被爆の問題を意識するようになったきっかけから伺います。
 平岡 敗戦の年の1945年9月末に朝鮮半島から一家で引き揚げ、旧制広高(広島市南区にあった広島高校)に入った。廃虚からいかに立ち上がるか。復興が優先した。広高でも校舎再建の募金活動に回った。ケロイドのある人を見るのは日常の光景だし、放射能の知識がなかったから、原爆の悲惨さはあまり意識しなかった。目覚めたのは東京時代に学生運動をやってから。朝鮮戦争(1950―1953年)で原爆が使われかねない状況に危機感が広がった。ストックホルムアピール(注1)の署名運動に僕も駆けずり回った。ただ実態は極めて政治的な活動だった。中国新聞に入社して原爆報道に携わったのは1960年ごろから。金井利博(注2)さんから随分教えられた。意識的に原爆被害の実態をみるようになったのは「ヒロシマ20年」の企画(注3)をやり、あらためて歴史を探ってからだ。

 ―日韓基本条約が結ばれた六五年の秋に韓国を訪れ、置き去りにされていた被爆者の存在に目を向けられたのは。
 平岡 その年の春に韓国・馬山の国立病院に入院していた青年から日本語の手紙が社に届き、僕のところに回ってきた。比治山(南区)の近くで被爆し、日本で治療を受けたいと書いてあった。原水禁運動は当時、日本の植民地支配で被爆した人たちを意識していなかった。「8月15日」以前は切り捨て新しい平和国家になったと思っているのに対し、「ノー」と言っているのが在韓被爆者だと思った。しかし、韓国を軍事独裁政権とみる運動団体は、在韓被爆者の問題をなかなか理解しようとしなかった。

運動分裂後 連携の動き

 宇吹 1965年は大学へ入った年。日韓条約に反対して朝から晩まで集会だらけ。広島出身だから原爆関係で何か組織しろとクラスで要望され、平和記念式典と原水禁世界大会に出た。会場の周りではフォークソングもあり見ごたえがあった。全国の平和運動が結集していて、ヒロシマに来れば現状が分かる感じがした。原水禁運動への見方は世代で少しずつ違う。私より前の世代は運動の分裂にものすごくこだわる。新聞報道も分裂を大きく取り上げた。私にしてみれば分裂は当たり前であり、出発点。

 県史編さん室に勤め、「原爆資料編」(1973年刊)の調査のため今堀先生(注4)と東京で一緒に泊まったら、先生が「挫折したことがある」とおっしゃった。「挫折がある世代なんてうらやましい」と答えると、「もう寝ましょう」となった。話しても駄目だと思われたのだろう。それでも私のような1970年安保世代までは、平岡さんや今堀先生の運動へのこだわりに共感できる部分がある。1970年代以降は徹底的にシラケている。

 ―原水禁運動が完全に分裂した1964年、金井利博さんが「原水爆被災白書」の作成と国連を通じた公表を提唱します。被爆の実態を国内外に伝える動きが高まった背景は。
 平岡 原水禁運動が、被爆者をそっちのけにした政党運動となり、党利党略で分裂した。被爆者の苦しみをきちんと知っていたら分裂なんてできないんじゃないかとの思いが広島にはあった。私たち自身も原点に戻って運動を組み立て直そうと考えた。金井さんも被爆の実相を知らないようでは世界に訴えられないと資料集めから始めた。

 宇吹 大学人が被害実態が研究対象であるとの意識を持ち出したのが、「被災白書運動」につながった。志水さん(広島大原爆放射能医学研究所の志水清教授)らの爆心地復元調査(注5)はちょっと後になるが、原水禁運動とは違うかたちで、原爆被害とのかかわりが研究者、市民、マスコミの間に出てきた。被爆20年の節目がヒロシマの思想化の始まり。原爆報道という概念、取り上げないといけないというマスコミの強迫観念も中国新聞の20年報道を機に起き、継続的になった。1960年代後半はさまざまな団体ができ、生き生きとしていた。

 もう一つ重要なのは、平和教育が白書運動と並行するように起きている。県が「8・6登校日」を言い出し、広島市も続いた。地元の行政が動きだした。被爆者対策に取り組むためには県民に理解してもらわないといけない。被爆者特別措置法(1968年施行)を求めるための情勢づくりの面もあったと思う。

通用しない 被害一辺倒

  ―1970年代に入ると被爆体験の風化が盛んにいわれだします。被爆体験に基づく訴えのターニングポイントは何だとみられますか。
 平岡 加害の問題だ。被害一辺倒の言い方が通用しなくなってきた。政府も「唯一の被爆国」と言い出し、韓国や中国から「被害は日本人だけじゃない」となった。

 ―孫振斗(ソンジンドゥ)裁判(注6)を一市民として支援する中、日本の被動者運動団体の対応はどうでしたか。
 平岡 冷たかった。治療を求めて佐賀県の唐津に密入国、手帳交付を求めたのが福岡県だったこともあるが、広島の運動団体は法律を犯した人を支援するわけにはいかない、運動のシンボルにならないという。僕はおかしいと論争した。核は市民の上に落とされ、老若男女いい人も悪い人も被爆した。だから法律を破った人も支援するんだ、韓国にいる被爆者も人間じゃないかと言った。被爆者運動は訴訟を大事にしなかった。そのころ被爆者運動は訴訟を重要に思っていなかった。「下田訴訟(注7)」も東京地裁でやった。広島の被爆者が原告になっているのに支援の動きは鈍く法廷闘争に終始した。

 宇吹 流れを整理するうえで欠落しているのは政府の対応をどう考えるか、だと思う。政府が「非核三原則」を取り込んでいく1960年代後半が1つのターニングポイント。1970年代からは首相が平和記念式典に参列しなければと思い始め、参列が当たり前になった。政策として位置付ける経緯がある。

 加害の問題の背景には、ヒロシマの思想化なり国際化の弱さがある。「不沈空母」発言をした中曽根(康弘)首相が式典に参列して(1987年)、それと一緒に海外へ発信される構図があった。政府、市政、市民で立場は違うが、「日本全体は核兵器に反対」というメッセージの出し方が弱い。ヒロシマの伝わり方が一面的でゆがんでいる。先ほどの裁判でも司法の枠内で独自のメッセージを送っている。政府に代わって被爆者の存在と救済を伝えている。

 平岡 国際司法裁判所(ICJ)の陳述(注8)をめぐり、政府は言いにくいだろうが、広島市は「国際法違反と言う」と外務省に伝えた。外務省の審議官は、陳述する前に原爆資料館を見て「人間としてよろしくない」と告白したが、政府の立場になると「核兵器は国際法違反」とは言えない。ヒロシマ、アウシュビッツで起きた事実は誰も否定できない。人類絶滅のイメージを喚起する。それが国際政治や日米安保と絡むと「人間として」が抜けてしまう。


●ひらおか・たかし
 広島市出身。早稲田大卒。1952年中国新聞社入社。被爆20年の企画報道などを担当。編集局長、中国放送社長を経て、1991年から8年間広島市長を務め、退く。現在は中国・地域づくり交流会会長をはじめ、さまざまな市民運動に携わる。著書に「偏見と差別」「希望のヒロシマ」など。西区在住。

●うぶき・さとる
 呉市出身。京都大卒。1970年から広島県史編さん室で「原爆資料編」などの編さんに当たる。広島大原爆放射能医学(現放射線医科学)研究所助教授を経て、2001年広島女学院大教授。著書に「平和記念式典の歩み」「原爆手記掲載図書・雑誌総目録」など。専門は日本戦後史・被爆史。呉市在住。


(注1)ストックホルム・アピール 1950年スウェーデンであった世界平和擁護大会常任委員会が原子兵器絶対禁止を呼び掛け、世界で約5億人が署名したとされる。
(注2)金井利博 元中国新聞論説主幹。「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨さとして知られたか」と1964年に原水爆被災白書づくりを提唱するなど被爆地から反核の論陣を張った。74年死去。
(注3)ヒロシマ20年 「世界にこの声を」「炎の系譜」「広島の記録」からなる企画。1965年7月8日付から30回連載。同年の新聞協会賞。
(注4)今堀誠二 元広島女子大学長、広島大教授(中国社会史)。1955年に始まった原水爆禁止世界大会をはじめ原水禁運動を理論面から支援した。広島、長崎両市による「広島・長崎の原爆災害」の編さんにも当たった。1992年死去。
(注5)爆心地復元調査 広島大原爆放射能医科学研究所とNHK広島放送局が共同で1969年、平和記念公園となった爆心地半径500メートルの中島地区の復元市街図を作成。広島市が委託した原爆被災復元調査委員会(志水清会長)が1977年、2キロ以内をほぼ復元した。
(注6)孫振斗裁判 広島で被爆し、1970年密入国した孫振斗さんが被爆者健康手帳交付を求めた訴訟。最高裁は1978年「国家補償的配慮が制度の根底にあり、適用される」と認め、在外被爆者への手帳交付の道を開いた。
(注7)下田訴訟 広島市の下田隆一さんら被爆者5人が1955年起こした原爆訴訟。東京地裁は1963年、国への賠償請求権は棄却したが、「原爆の投下は無差別爆撃で国際法上違反」と司法の場で違法性を裁いた。下田さんは翌年に死去。
(注8)国際司法裁判所での陳述 核兵器の使用・威嚇をめぐる国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)の審理で1995年、広島市長として「核兵器は国際法違反」と陳述、政府は「人道主義の精神に合致しない」と違反を明言しなかった。ICJは翌年に「国際法違反」との勧告的意見を出した。

(2006年7月14日朝刊掲載)

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