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連載・特集

対談 被爆者運動50年 ヒロシマの平和思想と展望 <2>

■編集委員 西本雅実

体験の継承とは歴史化 宇吹さん
地球市民意識を持とう 平岡さん

 ―被爆地の平和思想をどうみていますか。 
 平岡 ヒロシマの平和観のもとは、原爆慰霊碑(1952年建立)の「過ちは繰(くり)返しませぬから」の碑文にあると思う。原爆の巨大な惨禍に遭って、国というものを乗り越えて世界平和を確立するんだとの考え。今でいう地球市民の発想があった。第五福竜丸の被曝(ひばく)を契機とした運動が国民運動に発展し、「唯一の被爆国」と国家意識にとらわれた。やがて米国の「核の傘」の下にある矛盾が露呈し、(2001年の)「9・11」テロからは米軍、日米同盟の問題に直面している。ヒロシマの平和思想の正念場だ。国家の枠にとらわれている限り核兵器はなくならない。地球市民意識に戻らないと。もっとも今は環境問題などから地球市民意識の芽は育ちつつある。

人類絶滅観 一貫し訴え

 ―平和宣言からはどう読み取れるでしょうか。 
 宇吹 浜井信三市長に始まる宣言(1947年)は一貫して人類絶滅観を訴えているのが大きな特徴。海外の人が平和宣言をメッセージとして受け取るのもそれが大きな理由だろう。市長時代には、自身の政治的立場の表明の場だと思っておられたのか。

 平岡 平和宣言は毎年言うことは決まっている。一つは核兵器廃絶と世界平和。もう一つは犠牲者の鎮魂。国際情勢をどうみるかは個人の思想が間違いなく反映するし、議会、政府の顔も意識せざるを得ない。私自身は最初の宣言(注9)は思い入れがあった。これを言わないと広島アジア競技大会(1994年)は開けないと思った。議会でもちょっとあったし、右翼は騒いだ。(宣言は)ちょっと勇気がいった。

 日本はなぜ戦争をしたのか反省がないし、歴史観が欠如している。今の被爆者運動にもないと思っている。体験の継承とは歴史観の継承。自分がなぜこういう苦しみに遭っているのか、日本の近代史をさかのぼって検証しないといけない。そのうえで被爆したことを分かってくれと。マスコミも戦争はしてはならないというメッセージを継承しなければならない。

 宇吹 体験の継承とは、どういうふうに歴史化するかが問題と考えている。継承できるかたちで歴史化するならいいけど、変なふうになればアジテーションの道具になりかねない。

 平岡 戦争否定の精神をきちっと受け継ぐかが体験の継承。こんなひどい目に遭ったというだけなら、中国や今のイラクも同じ。ヒロシマを訴えるのであれば、戦争否定の強い思想が生まれてこないと意味がない。スペインで講演をした際、被爆体験から何を生み出したのかと尋ねられ「核兵器廃絶と世界平和」と言ったら、「欧州の人間はみんな言っている」と問い返された。彼らは、人類未曾有の体験を経た広島の人間は何か違った生き方をしているはず、それを知りたいと思っていた。ただ核兵器廃絶と言っても現実に苦しんでいるイラクの人たちと心が通わない。被爆者運動はそういう想像力を持たなければ。

 宇吹 今のような反論をされて答えようがない情けなさは、留学生との話し合いで感じる。われわれの生き方として示せない限り相手を説得できないというのはよく分かるが、それを被爆者運動の弱さにつなげるには抵抗がある。そうでない人たちもたくさんいる。被爆者運動、団体が果たしている役割は、国が戦争体験者で組織しているさまざまな団体なりと全く違う存在。日本の戦後に平和思想の到達点があるかというと、被爆体験に基づく平和思想以外に何があるというのか。唯一のものではないかという気がする。

国民運動に発展できず

 平岡 思想的には今おっしゃったことはあるだろう。それがなぜ、もっと共感を生む運動にならなかったのか。やはり原水禁運動が政党運動になって分裂したとき、本来なら被爆者が独自の運動をして、もっと違う国民運動へ発展させるべきだったのになってない。

 「つるパンフ」(日本被団協が1966年に発表した運動目標)以来、核兵器廃絶と援護法を柱にしたが、実態は医療法拡充であり、援護に力点がいった。それでは政権党に陳情するしかなく取り込まれてしまった。核廃絶は国の政策と相反することだから、国家責任追及でがんがんいかなくてはいけないのに。物だけいただくということになってしまったのではないか。

 宇吹 それだけだったら被爆者運動はとうに終わっている。「基本懇答申」(注10)以降は違った。答申までは原水爆禁止を前面に出したのでは、被爆者の要求を認められないという遠慮があった。答申でばっさり切られ、むしろすっきりと核兵器廃絶を前面に出している。被団協の中でも核兵器廃絶の旗をいったん降ろすかどうかで対立があったが、核廃絶で一致した。それを支援する市民の動きもできた。核兵器廃絶は共同の作業だからだ。運動が市民権を得てここまで続くとは思わなかった。

 もう一つは広島、長崎と、他の都道府県の被爆者団体は違う。原水禁運動のかかわりでいえば他県では何らかのよりどころがないと表に出られない。地域差はあるが、全体としては核兵器廃絶なり、手記編さんなど被爆体験に基づいた平和思想の動きをしている。

核なき未来 世界観必要 平岡さん
文化として次へ伝える 宇吹さん

 ―東西冷戦の崩壊後は核戦争の恐怖が薄れ、被爆五十年以降は被爆地に向けられる関心は薄らいでいます。ヒロシマの訴えが力を取り戻すためには何が必要ですか。
 平岡 やはり現実の政治と切り結ばないと言葉だけが宙に浮く。岩国の米軍基地強化についても黙っていていいのか。戦争否定をきちんと伝えなくては。被爆者ともども広島市民は理想は言うが、おおげさな言い方をすれば南の世界を踏み台にして生きてきた。自己矛盾を自覚しないといけない。原爆は二度とあってはならない。では、どうすればいいのかというのがなさすぎる。

 宇吹 沖縄の場合は戦争体験と米軍の基地被害がずっとつながっているから日常の中で継承がある。被爆体験は戦争否定の重要な出発点だったが、今では伝えられていないのが実情だ。広島大で1990年ごろから「平和講座」を受け持ったが、ほとんどの学生が「またか」の受け止め方。「はだしのゲン」の作者中沢啓治でさえ今は過去の人になりつつある。

 学生たちは原爆慰霊碑そのものは知っていても、碑文論争(注11)があったのを聞いたことがない。その意味ではヒロシマは教えがいがある。被爆体験、非体験にかかわらず、自分が平和について考えたことを素直に話せば伝わる。そういう機会に学生は接していない。知識はないが、感受性はいい。理論よりは文化として今から伝わっていくものが出てくるだろう。これまでの中にも伝えるべき文化的なものがあるだろう。

市民と運動 どうつなぐ

 平岡 ICJの陳述で「死者に代わって」とつい言ったが、それは生者のおごりだった。それは被爆者運動にもあるし、被爆者の発言が絶対化されている。マスコミは書かないが一般の人の批判は根強い。市民とどうつなぐかの回路ができていない。体験継承と違うつながり方があるんじゃないか。それは戦争否定だ。一般市民と被爆者をつなぐ回路がこれからの課題だ。

 宇吹 戦争否定で思い出した。加害をめぐる議論のときか、藤居平一さん(日本被団協初代事務局長、1996年死去)が「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒロシマだ。浜井の原水禁運動のあいさつ(1955年)を見てみろ」と言われた。確かにそうあった。映画「母たちの祈り」(注12)でナレーションを務めた杉村春子さん(広島市出身)から「ヒロシマの心とあるが、これはどういうことか」と尋ねられ、立ち会っていた私は「ある市民からノーモア・ウォー、ノーモア・ヒロシマと聞きました」と言ったら、「その気持ちで読もう」と言われた。戦争否定を意識していた人はずっといた。

 ―ヒロシマをきちんと歴史化しながら、どう継承、伝えていけばいいと思われますか。
 宇吹 全国に平和ミュージアムが次々と開館した折、見て回ったことがある。ヒロシマ、ナガサキ、南京大虐殺の写真が必ずあり、どこも同じ感じ。これでいいのだろうかと思った。現実の問題として今、「大和ミュージアム」現象がある。原爆資料館関係者は人気は一過性というが、そうではない。生まれ住んでいる呉は「被爆者はええのう」と露骨に言う所。原爆も大和も戦争はどういうことなのかを鋭く問いかけ、どちらも戦争体験に基づいているのに。

 平岡 ヒロシマの平和思想は、核兵器を廃絶してどんな未来をつくるのか、を問い詰めていない。豊かで公正で誰もが安心して暮らせる社会を国際的にも国内的にもつくる。だから構造的な暴力である貧困、病気、差別に反対し、核兵器はいらないと言わなければならない。(北朝鮮の弾道ミサイル)テポドンにも腰が据わっていない。やられてもいいというほどの覚悟がないと平和の訴えは迫力がない。ヒロシマの覚悟が問われている。核兵器を廃絶したらどうやって日本を守るのかとの問いが厳然としてある。軍事力を認めれば核兵器に行き着く。それをどう乗り越えるか。被爆体験の継承とは極端に言えば、そういうことだ。

世代超えて被爆意識を

 宇吹 被爆者の思いを理解しないといけない。現実は若者があまりにも歴史離れし、関心をなくしている。広島は被爆体験を大きく取り上げ生きてきた。それを通して考える歴史が前提であるはずだ。私は「史料整理屋」だが、継承にはまだまだ工夫はあると思っている。原爆資料館、原爆死没者追悼平和祈念館の使い方でも、今までの位置付け以外の展開の可能性はある。市が「学習の場」というのは分かるが、被爆資料の掘り起こしを市も国も熱心にやっていない。広島市立大平和研究所はもっと活躍していい。

 広島女学院大に行って良い面も悪い面も歴史的な関心を喚起させる素材があるのを知った。大学として被爆体験を忘れたらアイデンティティーがなくなる、平和を国際的に訴える根拠を失うという意識がそれなりにずっとある。いろんな機関がそういう意識を持つだけで随分ヒロシマの様子、展開が違う気がする。被爆体験の継承にしろ、若い世代がヒロシマにいることの意味、かかわりを意識することが広島を一番豊かにする。

 平岡 原水禁運動団体の幹部から加害を言われたら被害を訴える力が薄れるといわれた。だが日本は戦争中にどういうことをしたのか。そのことも考えないと「8月6日」の意味は伝わらない。自分たちも国の戦争を支持した。結果として間違った戦争だったと分かったが、犯した過ちを合わせて伝えるべきだと思う。

 宇吹 歴史家として避けて通れないのは例えば森滝先生(注13)の個人史。本当に伝わるかたちで残っているのか。平岡さんの話で普通の人間が被害を受けた、ヒロシマは聖なる存在ではないというのは分かった。人間のトータルの被害のあり方として伝える考えが要る。森滝先生を原水禁運動の素晴らしいリーダーというから難しい。一被爆者として語れば多くの被爆者の典型としてもっと伝えられる気がする。

 平岡 市民が平和を考え続け、ヒロシマのシンボルになった。僕はそれでいいと思う。4、5年前に牛田(東区)の集会所で、戦争の悲惨は東京大空襲も引き揚げもあると話した。すると、おばあさんが「広島では原爆体験しか聞いてもらえない」と涙を浮かべて言ってきた。こんな状況はおかしいと思った。自分はこういう戦争体験と継承があるんだと、みんなで言い合えないと。被爆者じゃないヒロシマ市民はたくさんいる。戦争そのものを検証するべきなんだと僕は思う。


●ひらおか・たかし
   広島市出身。早稲田大卒。1952年中国新聞社入社。被爆20年の企画報道などを担当。編集局長、中国放送社長を経て、1991年から8年間広島市長を務め、退く。現在は中国・地域づくり交流会会長をはじめ、さまざまな市民運動に携わる。著書に「偏見と差別」「希望のヒロシマ」など。西区在住。

●うぶき・さとる
   呉市出身。京都大卒。1970年から広島県史編さん室で「原爆資料編」などの編さんに当たる。広島大原爆放射能医学(現放射線医科学)研究所助教授を経て、2001年広島女学院大教授。著書に「平和記念式典の歩み」「原爆手記掲載図書・雑誌総目録」など。専門は日本戦後史・被爆史。呉市在住。


(注9)1991年の平和宣言 「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」とした。
(注10)原爆被爆者対策基本問題懇談会 厚相の私的諮問機関は1980年、被爆者対策について「一般戦災者との不均衡があっては国民的合意は得がたい」と死没者への弔慰金を含む援護法を退けた。1994年成立の被爆者援護法にも影響を与え、国家補償は認められなかった。
(注11)碑文論争 広島を1952年に訪れたインドの国際法学者パール博士が碑文の主語がないと批判。1970年代にも論争があった。広島市は「すべての人びとが過ちを再び繰り返さないことを誓う」と説明している。
(注12)原爆記録映画「ヒロシマ・母たちの祈り」  広島市が1990年に製作し、原爆資料館で上映されている。
(注13)森滝市郎 元広島県被団協理事長。広島大教授(倫理学)だった1956年、同被団協と日本被団協の結成とともに代表を務め、核実験に抗議する原爆慰霊碑前での座り込みなど被爆者運動の象徴的な存在だった。1994年死去。

(2006年7月14日朝刊掲載)

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