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連載・特集

対談 被爆者運動50年 ヒロシマを考え記憶する <1>

東京大法学部教授 長谷部恭男さん(49)
京都大大学院助教授 佐藤卓己さん(45)

 戦争を知らない世代が大多数となる中で、被爆体験をどう受け止め、未来につなげていけばいいのか。「被爆者運動50年」を機にヒロシマの平和観を考える今回の対談は、広島市出身の二人の気鋭の研究者に登場してもらった。憲法学者で東京大法学部教授の長谷部恭男さん(49)とメディア史が専門の京都大大学院助教授の佐藤卓己さん(45)。ヒロシマを意味づけ、記憶することについて、これまでの言説にとらわれない議論となった=文中敬称略。

■編集委員 西本雅実

非戦闘員殺傷許されぬ 長谷部さん
反戦の象徴から解放を 佐藤さん

 ―お2人は被爆地ヒロシマと、その訴えをどのようにみてこられましたか。
 長谷部 「8月6日」は広島が全国ニュースに取り上げられる特別な日との認識が子ども心にあった。ただ私が通った中学・高校では、被爆や平和に関する教育が強いインパクトを持って行われた記憶はない。自分が広島出身だと特に意識して研究、教育はしていない。核兵器は廃絶されるべきだが、それと、直ちにすべての核保有国は放棄せよという主張が現実的な主張としてあり得るのか。「核兵器の使用はよくない」と「戦争一般はよくない」が果たして直結するのか。論点を解きほぐして議論する必要があると思う。

 佐藤 長谷部先生との対比で言うと公立の小中高で熱心な平和教育を受けた(注1)。夏休みは講堂で被爆者の話を聞き、中学の修学旅行では長崎を訪れた。私の祖父も原爆の犠牲となったが、原爆の体験が親族の間で熱く語られたという記憶はない。ヒロシマの体験を世界に向けて「語るべきだ」というような政治的セレモニーには違和感を抱いた。

 「唯一の被爆国」ないし「初の原爆体験」が、日本のナショナル・メモリーとして確立したのは実は被爆直後ではない。「記憶の五五年体制」とともに浮上した(注2)。当時は被爆体験をナショナル・アイデンティティーとして広島が自ら引き受ける必然性はあったが、そろそろ「国民的な記憶としてのヒロシマ」という呪縛(じゅばく)から解放されるべきではないか。被爆地広島が反米的なナショナル・アイデンティティーの受け皿になったのは占領体験の結果でもあった。日本はサンフランシスコ講和条約(1952年発効)により政治的には米国側に付いたが、戦災の記憶は納得できない形で残り、戦争被害の象徴としての広島が反米感情の受け皿になってきた。しかし、その状況は冷戦終結で大きく変わった。ナショナルな反戦アイデンティティーの記憶は薄れてきている。

 ―どういう点でしょうか。 
 佐藤 核兵器は冷戦下では最重要の問題だったろうが、現在それほど重要な争点なのか、冷静に考えた方がいい。マスカルチャーではその部分はかなり鮮明になっている。例えば映画「ゴジラ」(注3)。このシリーズはビキニ水爆実験(1954年)の産物だったが、一昨年封切られた「ファイナル ウォーズ」では核問題の設定が欠落していた。私が子どものころゴジラはコミカルな中にも核の恐怖という設定が常にあった。それがシリーズ最後の映画で消えた意味も含め、冷戦後の今日もなお核の問題を訴えることに最大級の力点を置かなければならないのか、疑問を感じる。

米の論理は成り立たぬ

 ―広島・長崎の被爆体験に代表される戦争の悲惨さは、平和観の礎として今も受け継がれていると思われますか。
 長谷部 戦時国際法(注4)の基本原則からいくと、非戦闘員の殺傷はあってはならない。これは東京大空襲もそう。民間人を無差別大規模に殺傷するのは、正当性があるとすればよほどの理由がなければならない。米国が言う「原爆を落とさなければ日本は戦争をやめなかった」はある種の功利主義の議論。広島・長崎の犠牲で戦争をやめない日本政府を方針転換をさせることができたのだから結果として良かったではないか、という議論だ。しかし、これは理屈になっていない。米国政府自身が設定した「日本の無条件降伏」を達成するために原爆投下が必要だったと言っているだけの話だ。大都市爆撃という本来やってはいけないことをやった。核兵器によって、あるいは他の手段によって、非戦闘員を大規模に殺傷するのはもともと許されない。これが議論の前提として確認されなければならない。

 非戦闘員と戦闘員の区別は戦争被害を最小限に食い止める点からも意味がある。銃を撃ち合う際に「私が撃たなければ、あなたが撃っていた」との論理はあるだろう。だが非戦闘員である相手の家族を人質に取り、「お前が撃つのをやめなければ、こいつを殺すぞ」という議論は正当でありうるのか。人間を単なる手段として使ってはいけない、との倫理からすぐに分かることだ。

 佐藤 原爆投下についても「戦争だから仕方がなかった」という被爆者の語りはある。だが、当事者の談話を表面的にのみ受け止めるべきではない。それは自分の体験を納得させるための枠組み、相手に理解できるよう変換できた人の語りだ。それができない人の多くは沈黙するしかない。本当に考え抜いた真実の語りよりも、出来合いで誰もが納得してくれる話だけが、戦争の語りになっている。「被爆者が言っているから、こうだ」という引用の仕方で、都合の良いところを切り取って自説を展開するべきではない。

 ―戦争、平和観がきちんと議論、認識されていないということでしょうか。
 長谷部 戦争について考えるのも嫌という人もいれば、あらかじめ特定のポジションからみる人もいる。戦争は距離を取って冷静にみることが難しい。意識的にいろんな論点からみて問題を解きほぐす強い態度がないと、情緒的に引きずられてしまい、理性的な議論ができなくなる。

 ―被爆の体験と記憶の有効性に議論を進めたい。政府は「非核三原則」(注5)を曲がりなりにも続けている。広島・長崎の訴えの成果だと思われますか。
 長谷部 ある国がどういう防衛政策を取るか、どこと協調してどこと基本的に対立する関係かは、どういう憲法原則を取るか、政治体制かで決まってくる。核兵器を持つべきか、持つべきでないかもそういった大きな枠組みの中で決まる話。個別の地域の声が持つ影響は全くないとは言えないが、一つの要素にとどまるのでは。日本が米国と基本的に違う政治体制を取る選択は現実的ではなかった。そうである以上、独自に核武装することは意味がないし、マイナス面が大きすぎた。

 ―米国の戦略を受け入れたことが皮肉にも「非核三原則」になったのでしょうか。
 長谷部 皮肉かどうか分からないが、日本が冷戦下もリベラルな議会制民主主義を取ったのは正しい選択だったと思う。多様な意見が公正に共存できる議会制民主主義の陣営は、多様性を認めない陣営と対峙(たいじ)してきた。お互いに核兵器を持ち、大規模報復を保証することでカッコ付きの「平和」で共存してきた。そうした体制の下で、日本が独自に核兵器を持つことにはさしたる意味はなかった。

世論と輿論 一致しない

 ―「記憶の55年体制」に始まる平和観はどんな問題に直面しているのでしょうか。
 佐藤 外との対話回路を持たない記憶の五五年体制は、内向きなシステムであり、変えていかなければならない。今日では8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」(注6)としているが、戦没者追悼を「8月15日」にするのであれば、例えば降伏文書調印の「9月2日」か、サンフランシスコ講和条約の「9月8日」を対話のための「平和祈念の日」として別に設定する必要があると思う。

 1946年に出た当用漢字表で「輿論(よろん)」の「輿」の字が使えなくなり、「世論(せろん)」と書いて「よろん」と読む奇妙な概念ができた。感情、私情であるポピュラー・センチメントの「世論」と、公的な意見であるパブリック・オピニオンの「輿論」、両者は本来別の言葉だった。被爆者の声と非核三原則は、この世論と輿論に重なると思う。被爆体験の私的な感情(世論)と政治的な意見(輿論)はイコールでは結べない。個人の体験が「広島の記憶」として無理に国民化されてきたのではないか。それによって実際さまざまな問題が起き、かなり党派的に扱われてきた。ポピュラー・センチメント(私情)は、パブリック・オピニオン(政治的意見)に劣るものではなく、従属するものでもない。両者の違いを直視しなくては被爆の体験は継承できないのではないか。

世界観多様 訴え工夫を

 ―被爆体験に基づく訴えを政治的な呪縛から解き、理性的に語り、伝えるにはどうすればいいと思われますか。
 長谷部 国家の最大の任務は平和を維持し、国民の生命財産を守ること。知恵を絞って目的を実現するよう冷静に実効的な手段を考えなければならない。悪い意味で政治的な議論は、「これこそが人として生きる道」という特定の世界観を奉じて、それにあらゆる人が従うべきだという。しかし世界観は一つではない。そこで異なる価値観を持つ人々が公正に共存する枠組みとして立憲主義がある。立憲主義の要点は「私」と「公」を分けること。「私」の領域では各自が「善」と思うことに従って生きることが保証されるべきだが、社会全体の利益を審議・決定する「公」の領域に直輸入するのはまずい。どんな世界観の人にも「これなら実効的な安全保障」という枠組みを考えなければいけない。性急な議論のうちに「核兵器廃絶」というだけではなかなか納得してもらえないだろう。

 ―「核兵器廃絶」をパブリックに議論し、納得してもらうには少なくともどのような姿勢が要ると思われますか。
 長谷部 志が同じ人の運動ではよくても世の中には違う志の人もいる。ある政策を取るのに、「われわれの世界観で正しいから」というレベルで訴えると納得されない。「公」の議論で理解を得るには、違った世界観の人も「これなら国民の生命財産の保障ができる」「われわれも含めて世界全体の利益になる」と思わせる議論、理屈付けが要るだろう。

 ―佐藤さんは、被爆体験と核兵器廃絶の訴えがごったになって議論されているという問題提起をされましたが。
 佐藤 実際には私自身の中でも私的心情と公的意見は交じり合っているし、明確に分けるのは難しい。しかし、あえてそこをいったんは分けて考えることが必要だと思う。私情の部分を見つめた上で、これから発言するのは公的な意見なんだ、という意識的な「輿論」形成の中でしか第三者や世界との対話は成り立たないだろう。

 もう一つは、終戦記念日が「8月15日」だと思っているのは日本と朝鮮半島だけ(注7)。そもそも慰霊をしつつ政治的な議論をするということが、一人の人間として同時にできるのか。「世論」と「輿論」を重ね合わせたまま理性的な議論をするのは難しい。肉親を失った悲しみに思いをはせながら、同時に核兵器廃絶の政治を議論するのは当事者にとって過重でしかない。


●はせべ・やすお
 広島市中区堺町出身。本川小、広島大付属東雲中、付属高、東京大法学部卒。学習院大教授を経て1995年から現職。著書に「比較不能な価値の迷路」(東京大出版会)「憲法と平和を問いなおす」(ちくま新書)「憲法とは何か」(岩波新書)など。総務省国地方係争処理委員会委員も務める。東京都文京区在住。

●さとう・たくみ
 広島市東区尾長町出身。尾長小、二葉中、観音高、京都大文学部卒。同志社大助教授などを経て2004年から現職。著書に「『キング』の時代」(岩波書店、サントリー学芸賞)「八月十五日の神話」(ちくま新書)「メディア社会」(岩波新書)など。京都市上京区在住。


(注1)平和教育 1969年、広島市教委は「原爆記念日」を児童・生徒に理解させる指導方針をまとめ、市立小中学校に指示。日教組は同年の定期大会で平和教育を運動方針に採択した。
(注2)記憶の55年体制 佐藤さんは著書「八月十五日の神話」で「八月六日の被爆体験に始まり八月十五日の玉音体験に終わる『国民的記憶』」は、メディアの終戦10周年報道を通じて定着したとみる。この年は自民党結党、社会党再統一による政治の「55年体制」もみた。
(注3)映画「ゴジラ」 第1作は「水爆実験が生んだ驚異の怪獣」の宣伝文句でビキニ水爆実験と原水爆禁止運動が起こった54年に公開され、961万人の観客を集めた。シリーズは2004年公開の「ゴジラ ファイナル ウォーズ」で28作を数えた。
(注4)戦時国際法 戦時に適用される国際法。交戦国間の戦闘行為を規律する交戦法規と、中立国との関係を規律する中立法規からなる。
(注5)非核三原則 「核兵器は持たず、作らず、持ち込ませず」とする政策。1968年に佐藤栄作首相が衆院本会議で三原則の順守と「核の脅威には米の抑止力に依存する」核政策4本柱を示した。1970年、日本は核拡散防止条約(NPT条約)に調印。
(注6)戦没者を追悼し平和を祈念する日 終戦記念日を「8月15日」と法的に定めたのは1963年、「戦没者を追悼―」の名称が決まったのは82年。
(注7)終戦記念日 米国の対日戦勝記念日は日本が降伏文書に調印した「9月2日」、旧ソ連は北方4島をほぼ占領した「9月3日」を戦勝記念日としていた。中ソ同盟を結んでいた中国も現在までの公式の抗日戦勝記念日は「9月3日」。

(2006年7月18日朝刊掲載)

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