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連載・特集

被爆者運動50年 明日への扉 <1>

■編集委員 西本雅実、記者 石川昌義

継承者たち

 広島・長崎の両県被団協を母体に日本原水爆被害者団体協議会が結成され、この8月で半世紀を迎える。被爆体験に基づく営み、平和観は今どんな岐路や課題に直面しているのか。「被爆者運動50年」の最終シリーズである今回は、核時代に生きる私たちの「明日への扉」を探り、考える。

 梅雨の晴れ間が広がった日曜日の朝、JR三原駅北口に立つ「原爆死没者慰霊碑」を中年の男女4人が掃き清めていた。

 三原市西野町の主婦平木京子さん(52)は、「普段は仕事や家事に追われ活動ができない。休日にせめて掃除くらいはと思って始めたんです」と説明した。父の苞山(ほうやま)正男さん(77)は「私らが元気なうちに会を引き継ぐ人が出てほしい」と期待を込め、立ち会った。

 苞山さんは「三原市原爆被害者之会」の事務局長。国鉄機関助士として広島で入市被爆し、1956年の会結成時からのメンバーでもある。

 1970年代後半に900人を超えていた会員は500人台となった。「8月6日」の広島市の平和記念式典への参列者も年々減り、苞山さんらが奔走して3年前、地元に碑を建立。続いて取り組んだのが「2世部会」づくり。一昨年に発足をみた。

自覚の薄さも

 「戦争・原爆は二度とご免だという気持ちを受け継ぎ、三原の碑を守ってほしい」。1世たちの願いを受け約150人が入った。だが本格的に活動しようとしたら、大半は親が名前を書いて寄せていたのが分かった。

 そこで「まずはできることを」と、2世部会員は昨年末から隔月で碑の清掃に取り組む。部会長を務める小学校教諭の亀山弘道さん(59)は「働き盛りの世代ではあるが、被爆2世といっても自覚的な人は案外少ない」ともどかしげに話した。

 被爆体験の身近な継承者である2世の活動組織はどれだけあるのか。

 広島県被団協(坪井直理事長)を構成する地域単位の54団体で、組織があるのは7年前にできた三良坂町(三次市)に続き三原、福山、東広島市など8団体にとどまる。広島市内にはない。もう1つの広島県被団協(金子一士理事長)は「被爆2・3世の会」を結成したが、役員は友好団体や労組幹部の兼務。どこも「活動は広がっていない」と認める。

 身をもって「あの日」を体験した1世と違い、2世にはそれぞれの暮らしを超えて共有する強烈な記憶はない。一方、がんなど生活習慣病にかかりやすい世代に差しかかる。

影響は未解明

 広島市南区の放射線影響研究所は、前身の原爆傷害調査委員会時代の1948年から2世の遺伝的な影響の調査を続け、死亡率も追う。非被爆者の子どもとの比較でこれまで統計上の有意差は出ていない。中村典遺伝学部長(59)は「明確な根拠がないだけで断定はしていない。遺伝的調査は少なくともあと20年は要る」とみる。つまり2世も含めて被爆の実態は今も未解明ということだ。

 2世へのバトンタッチを願う苞山さんだが、遺伝的影響の話になると表情を曇らせた。

 結婚した娘3人のうち二女が肝臓を病んだときは被爆の光景がよみがえり、「やはり関係あるのか」と悩んだ。「心配までは引き継いでほしくない」。胸中は複雑だ。

 長女の平木さんは、一緒に暮らす父が腎臓病治療を続けながら会員や遺族の相談、碑建立の打ち合わせに小型バイクで走り回る姿を見てきた。2世部会の会計係を引き受けてからは、父と被爆体験について話す機会が自然と増えてきた。

 「私の三人の子どもに『平和が大切』と言ってもピンとこないだろうが、家族の歴史として話せば伝わるものはきっとあるはず」。1世たちの運動に触れる中で平木さんたち2世は、継承が未来をもはぐくむ営みと考えるようになった。

(2006年7月25日朝刊掲載)

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