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連載・特集

被爆者運動50年 明日への扉 <6>

■記者 田中美千子

イワクニとヒロシマ

 市街地の真ん中に「星条旗」が翻る。JR岩国駅の南約2キロに広がる米海兵隊岩国基地。銃を携帯した隊員が正門で目を光らせる。「こんな光景を見てジレンマを抱かない被爆者はいないでしょう」。岩国市装束町に住む画家の島崎陽子さん(62)は、基地を背に立つと思わずため息をついた。

基地との共存

 空母艦載機移転計画に揺れるイワクニは、被爆地ヒロシマとは約40キロの距離にある。被爆者健康手帳の所持者は1320余人。山口県内で暮らす被爆者の4人に1人に当たる。

 島崎さんは、広島市昭和町(中区)の自宅で被爆し、姉を失った。建物疎開作業に動員された13歳の姉は、収容先で島崎さんの名前をうわごとのように繰り返して息を引き取った。被爆の翌年に家族5人で岩国へ転居。画家だった父の中田光紀さん(1996年に89歳で死去)が映画の看板作りの仕事を見つけた。姉の最期や広島の惨状を幼いころから聞いて育った。熱線を浴びた母子を描いた父の絵は原爆資料館に収められている。

 自分の街には核兵器の力を信奉する米軍の基地がある―。島崎さんは基地の存在を常に意識せざるを得なかったと言う。

 「米国の核兵器積載艦船の寄港や通過は問題にならない、という口頭了解が(1960年の)安保改定時にあった」。ライシャワー元駐日大使の1981年の証言である。その後も米国政府関係者の「核の持ち込み」を認める発言が続いた。日本政府が掲げる「核兵器は持たず、作らず、持ち込ませず」の「非核三原則」が問われてきた。

 岩国市議会は証言が伝わるたび地元の核疑惑を取り上げたが、尻すぼみに終わった。広島の入市被爆者で元市議の村中雪春さん(82)は「基地経済で復興した岩国では撤去論は盛り上がらなかったし、軍事機密に介入するすべなどなかった」と振り返った。市民の関心が広がらなかった。

 しかし、今回ばかりは様子が違ってきた。政府が昨年10月に艦載機57機の移転を地元の頭越しに決定(後に2機追加)し、岩国が極東最大級の基地になる懸念があるからだ。撤回を求める住民団体が相次いで発足した。うねりは被爆地広島にも波及した。合併前の旧岩国市による住民投票(3月12日)で、市民は圧倒的な「反対」を突きつけた。

 「初めて基地問題に自分の意見が表せる」。島崎さんは感慨をかみしめながら「反対」に「○」を付けた。ただ物足りなさも覚えるという。基地をめぐる議論が深まりを見せないからだ。市民は艦載機移転には「ノー」だが、基地との共存路線までは崩さない。

 「住民投票の成果を活(い)かす岩国市民の会」代表で、幼稚園長の大川清さん(48)は、背景をこうみる。「基地との共生を強いられてきた岩国は雇用の問題や地元への基地交付金など、しがらみがある。基地撤去を掲げては運動は広がりにくい」。日々の生活と基地の存在が密に絡み合う現実がある。

答えは出せず

 日本の米軍基地を肯定するのは岩国市民だけではない。内閣府が2月に実施した防衛問題をめぐる世論調査で、「日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」との答えが76%を占めた。その割合は3年前の調査に比べ上昇している。

 国民も「非核三原則」を唱えながら米軍の「核の傘」に自国の安全を委ねる。ねじれが続く。

 島崎さんは「武力に頼らずに安全を維持する方法はないんでしょうか」と問いかけた。「米軍再編を機に岩国も広島も、基地や核兵器、安保問題を1人1人が考えてほしい。そう思うのに自分も答えは出せないんです」。煩もんがフェンス越しの基地の前で続いた。

(2006年7月30日朝刊掲載)

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