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連載・特集

被爆者運動50年 明日への扉 <7>

■記者 岡田浩平

「折り鶴」受け継ぐ

 広島市中区の平和記念公園にある「原爆の子の像」前で24日、市と近郊の児童・生徒ら約600人が参加して碑前祭が開かれた。「像の建立は禎子さんの級友と河本さんというおじさんが呼び掛けたんだよ」。折り鶴をささげる子どもらに話しかける前広島女学院中・高校長の黒瀬真一郎さん(65)の姿があった。

 禎子さんとは、被爆10年後の1955年に亜急性骨髄性白血病のため12歳で逝った佐々木禎子さん。死去の翌月、彼女が通った幟町小の元級友たちが、広島であった全日本中学校長大会で「原爆の子の像を作りましょう」とガリ版刷りのビラを配ったのが建立のきっかけとなった。

子どもと活動

 ビラ配りを提案したのは河本一郎さん。禎子さんの死去を知って、元同級生らを訪ねた。像の実現をみた1958年に「広島折鶴の会」が誕生すると、児童生徒が主役の会の世話人として市井の平和運動を貫き、五年前に72歳で亡くなった。

 この日、黒瀬さんが碑前祭に参加したのは、河本さんと会に集ったヒロシマの子どもたちの営みを「受け継いでほしい」との思いから。昨年に「原爆の子の像と折り鶴の会」を結成、東区の自宅を事務局としている。

 ただ、会員180人の大半は黒瀬さん夫妻の知人。「子どもたちが主役で大人は黒子となる活動にしたい…」。児童・生徒は1人も入っていない現状に、「黒子」に徹して「折鶴の会」を続けた河本さんのすごさをあらためて感じている。

 河本さんは両親が移民した南米ペルー生まれ。幼くして両親と死に別れ、16歳の夏に働いていた広島県坂町から救援に入り被爆した。原爆ドームそばのバラックに住み、隣同士の吉川清さん(1986年死去)らといち早く被爆者グループをつくったが、やがて子どもとの活動にのめり込む。

 「いたいたしい原爆ドームだけが、いつまでも恐るべき原爆を世に伝えてくれるでしょう」。やはり白血病のため16歳で逝った楮山(かじやま)ヒロ子さんが日記に書き留めていたのを受け止め60年、存廃論議が続いていたドームの保存を訴える。市は六年後に保存を決めた。

 女学院で校務員をしながら晩年まで、自転車の荷台に折り鶴を入れた箱を積んで駆け回った。政治家や文化人、治療のために訪れた在韓被爆者へ。代替わりする会の子どもたちと折り鶴や平和のメッセージを贈った。

組織とは距離

 しかし、組織とかかわりを持たない独自の運動は、奇異な目でみられた。「子どもたちを利用しているだけ」と批判もされた。河本さん自身、雄弁でなかった。

 「『分からんもんは分からん』という感じで頑固さもすごかった」と黒瀬さん。妻の禎子(ていこ)さん(67)は「子どもの優しさを信じた活動だった」と述懐する。

 河本さんに届く英語の手紙の翻訳に協力した夫妻には、忘れられない1通がある。「憎しみの言葉を覚悟して広島駅に降り立つと、子どもが折り鶴のレイをかけてくれて感激した」。運動の日常性と継続性が持つ力をひしひしと感じた。それだけに「折鶴の会」をよみがえらせたいと動く。  「お兄さん(河本さん)は自分にできることを続けた。その熱意を知ってほしいし、伝えてほしい」。佐々木禎子さんと同じ病室で千羽鶴を折り、「折鶴の会」の創設メンバーでもある東京都在住の大倉記代さん(2008年に67歳で死去)はそう求めた。

 大倉さんは今年2月、「『サダコ』・虹基金」を設立した。劣化ウラン弾の影響とみられ、白血病に苦しむイラクの子どもたちに医療支援費を贈る。被爆者の大倉さん自身、今がんと闘う。「現代のサダコを少しでも手助けしたい」という。個の意思から始まる運動に取り組む。

(2006年7月31日朝刊掲載)

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