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連載・特集

被爆者運動50年 明日への扉 <8>

■編集委員 西本雅実、記者 石川昌義

原爆は昔話か

 自身のサイトに「きのこ雲が消える日まで」と掲げ、広島市南区の児玉光雄さん(73)は、被爆体験を昨年夏からインターネット上で伝えている。東京の不動産会社を定年退職した60歳で大腸がんが見つかり、14回の手術を繰り返した。

 爆心地900メートルの県立広島一中(現国泰寺高)の校舎内で被爆した。約300人いた1年生の大半が犠牲となり、復学できたのは18人。児玉さんは校舎の下敷きとなった級友を置き去りにするしかなかった体験も赤裸々につづり、載せている。

 「原爆が何をもたらしたのかを若い人に知ってほしい」。サイトの表紙にある冒頭の言葉は、被爆者の心身の傷が今も癒えていないことを表す。「きのこ雲」を生んだ核兵器が存在しているからだ。

ネット未整備

 万単位の人がアクセスするネットを通じた被爆体験の発信は、今どれくらいあるのか。国内最大手のポータル(玄関口)サイト、ヤフーの登録サイトで「被爆体験記」と打ち込み検索すると5件だった。「当社が登録しているのは約50万件」(マーケティング部)というからネットの大海の1滴にとどまる。

 平和記念公園に4年前できた国の原爆死没者追悼平和祈念館は、被爆50年の被爆者実態調査で記された約8万人分の手記や、全国各地で編まれた体験記の計11万4000余編をデータベース化している。しかし「計画当初に盛り込んでいなかった」と今もネット発信を見送る。読むには祈念館を訪れるしかない。

 市の原爆資料館が運営する「ヒロシマピースサイト」へのアクセスは、昨年度は約282万件と5年間で10倍増をみた。4割が英語版サイトへのアクセスだ。被爆の実態を刻む収蔵資料1万9000点も載せているが、内容の説明となると、大半が日本語。谷川晃副館長(49)は「資料が膨大で英訳には費用と手間がかかる。原爆写真くらいは何とかしたいのですが…」と頭を悩ます。

 広島と瀬戸内海を挟んで向かい合う松山市。愛媛大2年の小笠原杏奈さん(19)は今年、被爆体験記の英訳に挑んだ。愛媛県原爆被害者の会が昨年に発行した「原爆 慟哭(どうこく)の60年」に収められた36編を「平和学入門」の受講生たちと翻訳した。

 兵士として遺体処理に当たった梶川源太さん(84)の手記を担当した小笠原さんは、実際に何度も会って手記を読み込んだ。「60年たっても心に深い傷を残す原爆の恐ろしさを知り、傍観者でいられなくなった」。この6月にカナダであった「世界平和フォーラム」に地元の被爆者らと参加し、英語版を配った。

自ら考え実践

 翻訳を指導した和田寿博助教授(43)は「情報でしかなかった原爆被害を身に付けることで、自分なりの表現方法を考え、実践するようになった」と、被爆体験記との出合いが学生たちに変化を生んだとみる。国内外の大学生の核意識をメールで問う調査や、原爆詩を点字にする学生も現れた。

 梶川さんもいう。「若い人は戦争や原爆に関心がないと思っていたけど、しっかり話を聞いてもらった。自分の体験が外国に伝えられたのは感激の一言です」

 「8月6日」が近づく。児玉さんは、自分と同じように放射線後障害に苦しむ同級生6人から聞き取った証言もネットに載せる作業を進めている。「紙一重で生き延びた人間として、無念の死を遂げた友の分まで伝えたい。最後の務めです」

 原爆は昔話ではない。2万発を超す核兵器が存在し、持とうとする国がある。被爆者は「生きていてよかった」と思える世界をつくろうと運動を始めた。それぞれが取り組んできた。その世界に1歩でも近づけていくのは私たちの務めでもある。=おわり

(2006年8月1日朝刊掲載)

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