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連載・特集

被爆者運動50年 全国団体アンケート 体験継承に危機感

■編集委員 西本雅実、記者 金崎由美、岡田浩平、石川昌義

   今夏の「被爆者運動50年」を機に、中国新聞社は全国47都道府県にある被爆者団体に現状と展望を尋ねるアンケートを行い、すべての団体から回答を得た。戦後日本の平和観を成す被爆体験に基づく活動を粘り強く続ける一方、「継承」にあえぐ現実が浮き彫りとなった。戦争をめぐる国民的な記憶が薄れる中、調査結果に表れた被爆者らの思いは、私たちが未来に向かってどんな営みをなすべきかを問うている。


活動の力点

95% 学校・地域で証言

 この10年間の活動の力点について尋ねると、全国48団体のうち山形と福井を除き、95.8%に当たる46団体のいずれもが被爆体験の証言を挙げた。

 「会員でつくる『被爆を語り継ぐ会』が年に約300件こなす」(広島・坪井)「初めて3年前に証言ビデオを制作し、県内の全小、中、高校に贈った」(島根)「JR横浜駅の地下街で原爆展を今年も7月に行った」(神奈川)。平均年齢は73歳となる被爆者が体力、気力を振り絞り、学校や地域で語りかけているのがうかがえる。

 「被爆の実態は伝わっていますか」の問いには、38団体が「思う」「多少は思う」と手応えを覚える。被爆者の写真を児童の肝試しに使う授業が2年前にあった熊本は、「教育者にすら理解されておらず、話すだけでは十分に伝えきれていない」とみる。

 被爆者健康手帳や諸手当の申請支援は39団体が取り組み、全県的な活動が途絶えている山形・酒田も「唯一の活動」に挙げた。被爆者がお互いに助け合う結成時からの活動が今も受け継がれている。

 1995年施行の被爆者援護法に「国家補償」を盛り込ませる運動や、体験記の出版も地道に続く。原爆症の認定を求める集団申請は半数を割り、活動としてはいまひとつ広がっていない。

 被爆地の広島・長崎以外では、手帳所持者の47.6%が各地元の団体に入り、よりどころにしている。しかし進む高齢化から役員の担い手が見つからず、3月に奈良が解散したのに続き、鳥取も「解散を検討中」だ。「援護法の成立後、一気に無関心層が増えた」(鹿児島)と運営はどこも厳しい状況に直面し、危機感が強い。


二世の組織

「担い手いない」30団体

 被爆二世組織があるのは、48団体のうち5団体にとどまった。身近な子どもたちの間でも被爆体験を継承する難しさがのぞく。

 茨城は5月の総会で「親の活動を理解し、協力する意識を二世の間に高めよう」と話し合い、新潟は7月に、「ささえる会」の設立を申し合わせた。「若い人がいればパソコンの操作一つとっても助かる」という。

 3000人近い会員がいる兵庫は20年余り、結成を探ってきたが反応は鈍く、「差別や偏見を気にして親も子も尻込みしている」という。熊本は八割が「組織は必要」とした二世の意向調査から準備会を開くと参加者は8人だった。組織のない43団体のうち30団体が、「願っても担い手がいない」現状にある。

 二世組織を持つ5団体も実際の活動は、「方向性が見いだしにくい」(広島・坪井)、「労組や平和団体以外に輪が広がらない」(同・金子)と苦慮。そこで、神奈川は会の中に設けた「二世支部」が被爆の実態の学習会や慰霊碑の清掃、千葉は「二世同士の親睦(しんぼく)と健診診断」を呼び掛け、負担の少ない活動から取り組んでいる。

 山口は県被団協とは別組織の「被爆二世の会」が一世の被爆者検診などを手伝う。「外部との連携を深めたい」と地元の大学生らにも働きかける。福岡は、支部の「筑紫原爆被害者の会」(筑紫野市)が昨年に特定非営利活動法人(NPO法人)化した。「非被爆者を引き入れ活性化を図りたい」

 二世を含めて戦争体験がない世代との連携が課題となっている。視点を変えれば、次世代が自らの意思でかかわるかどうかが、被爆体験と記憶の継承の鍵を握っている。


核のない世界

半数近く「実現する」

 「核兵器のない世界は実現すると思うか」との問いには、代表者らの答えは「思う」が23人、「思わない」が25人とほぼ拮抗(きっこう)した。被爆者としての変わらぬ願い。2万発を超す核兵器が存在している現実。未来に託し、不安視する思いが交錯している。

 被爆地に拠点を置く団体は「実現可能」で一致した。「核保有国にも廃絶を望む市民はいる」(広島・坪井)「国内外で世論を高めれば」(同・金子)「世界の市民と連帯することで可能」(長崎)。また、「人間の英知を信じたい」(福島)「可能と思わなければ人類に未来はない」(山梨)と、人間としての理性を信じ、それにかける考えがみえる。

 実現を疑うのは、「核の抑止力」に頼る政治家や国家への不信感から。「核兵器で脅かされれば持つ国が出る」(長野)、「核超大国の米国が現在の政策を続ける限りなくならない」(島根)「保有国が開発をやめない」(岡山)。米軍基地が広がる沖縄は「原子力潜水艦も寄港し、核の危険と隣り合わせでは楽観的になれない」と訴える。

 「平和が脅かされていると感じる」点を複数回答で尋ねると、48人のうち43人がイラク戦争を主導する「米国の世界戦略」を挙げた。憲法第九条をめぐり高まる改憲論議や、インド洋から中東まで広がる日米同盟への不安視も強い。

 日本がとるべき政策については、「米国の『核の傘』からの脱却」が31人と、ほぼ3人に2人の割合で選択した。

 「最期まで被爆の実態と史実を子どもらに語り継ぐ。政府は世界にもっと訴えてほしい」(大分)。政策の選択肢は違っても、被爆者に共通した思いである。


日本被団協事務局長 田中煕巳さんに聞く

「継続あと10年」 体制見直しを

 アンケート結果について、東京都港区にある日本被団協の田中煕巳(てるみ)事務局長(75)に聞いた。

 被爆者健康手帳の所持者数に占める被団協の加盟者が広島・長崎を除く都道府県で47%に上った。これは、原爆被害について自治体や医療機関の理解がない土地で、被爆者が励まし合って生きるよりどころになっている表れだと思う。

 日本被団協は、被爆二世を継承の担い手として前面に出し、トップダウンで組織をつくる方針は取らない。被爆体験という共通項を持たない二世が、意見の違いを乗り越えて求心力を保つのは容易でない。運動に熱心な一世ですら偏見を恐れ、子どもは表に出さない人がいるという事情もある。

 各地の団体の95%が「学校や地域の被爆体験証言」を重点活動に挙げたのは、被爆体験を継承し、核兵器廃絶の訴えを次世代に託すことを最重要視しているからだ。

 だが、被爆の実態が伝わっているかとの質問で「多少は思う」が最多になったのは、証言活動に手応えを感じる一方、世界は核兵器廃絶の方向に進まず、改憲論議も活発化している現状へのいらだちからではないか。「平和が脅かされていると感じる理由」への回答からも「これだけ体験を伝えているのに、世界は反映させているのか」との複雑な気持ちを抱いていることが読み取れる。

 活動可能を「あと5―10年」とする団体が多いが、今後の組織の在り方を緊急に検討するべき時期が来ていると私も考えている。核兵器廃絶と原爆被害への国家補償実現に向けて、活動を続けていくためだ。


被爆者団体代表48人の訴え

※都道府県名、名前、被爆状況、訴えの順

 北海道 服部十郎常務理事(77) 陸軍船舶部隊(暁部隊)、皆実町(南区)の兵舎で
 札幌市の「ノーモア・ヒバクシャ会館」で、被爆者ではない賛助会員も語り部として話してもらっている。聞き覚えでいいから原爆の惨状を伝え、平和の大切さを訴え続けてほしいからだ。

 青森 白取豊一会長(78) 陸軍船舶特別幹部候補生隊、江田島から広島へ入市
 戦争で世界各地の紛争は解決できない。被爆者は旗を掲げる力は残っていないが、一人一人が戦争はしてはならないと若い人に語り伝え、会の活動を通して広めたい。

  岩手 斉藤政一会長(82) 皆実町の通信補充隊で
 被爆の実相を伝える語り部の活動を続け、マスコミなどを通じて広めたい。核兵器は、人類と地球生物を絶滅させる兵器との認識を世界に徹底させる必要がある。

 宮城 木村緋紗子事務局長(69) 大須賀町(南区)の母の実家で
 戦争の本当の恐ろしさは被害者でないと分からない。日本が戦争をする国とならないよう、憲法第9条の改正阻止を被爆体験とともに訴えたい。

 秋田 佐藤力美事務局長(68) 召集された父が皆実町で
 秋田の被爆者は50人を割ったが、死没者を含め約100人分の手記がある。これを毎年、慰霊祭の参加者に配り被爆の実相を伝えてもらっている。体験を伝え続けてきたのが原爆を阻止する力になっていると思う。

 山形 斉藤忠治酒田地区被爆者の会事務局員(80) 陸軍海上挺身(ていしん)戦隊、比治山本町(南区)で
 県内の被爆者3団体の連絡協議会はあるが、10年活動していない。酒田地区も高齢化で一昨年から思うように動けないが、各種の手当申請の相談などには応じたい。

 福島 星埜惇事務局長(78) 広高(現広島大)1年、動員先の寮から広島へ入市
 県内高校長を対象にした約20年前のアンケートでさえ、99%が「生徒に残酷な実態を教えるべきでない」と答えていた。広島を離れるとそういう現実がある。平和教育を徹底してほしい。

 茨城 茂木貞夫事務局長(72) 中島国民学校(中区)へ登校中に
 毎年アンケートで会員の健康状態を把握し、手当申請を手伝っている。発足時からお互いの助け合いが会の目的。どの党派にも属さず団体の支援は受けていない。後継を政党や労組関係者に任せるつもりもない。

 栃木 中村明事務局長(75) 勤め先の長崎市の工場で
 核兵器の威力が原爆をさらに上回る今、どこで使われても人類は滅亡する。戦争そのものが人間も財産も奪う実態を教科書で教えるべきだ。

 群馬 須藤叔彦会長(77) 学徒動員先の三菱長崎兵器製作所で
 日本被団協がノーベル平和賞を受ければ、国民はもとより世界中の人たちが被爆者運動を見る目が変わる。核兵器がない平和な世界の理想を失わず、この運動を子孫へ継承したい。

 埼玉 肥田舜太郎会長(89) 広島陸軍病院医師、戸坂村(東区)で
 被爆者が体験を語り、市民に人類が抱える問題点を感じてもらってきたが、訴えは全容を見通したものでない。次世代に最も何を伝えるべきか、核問題の専門家らでまとめることが重要だ。

 千葉 青木茂会長(81) 勤め先の三菱長崎兵器製作所で
 地元の高校では生徒の2割ぐらいしか原爆を知らないのでは、と聞いた。被爆者が3、40分語る程度では受け止められないだろう。国や自治体がどれだけ戦争被害を教えているか疑問だ。

 東京 長岡和幸事務局長(72) 長崎市の自宅で
 原爆被害を教育現場で正しく伝えていない。東京から広島・長崎へ修学旅行に行く学校も減った。生徒や先生たちは忙しいだろうが、被爆者の生の声を聞けるのは後10年と受け止めてほしい。

 神奈川 中村雄子事務局長(74) 県女(現皆実高)2年、古田町(西区)の工場で
 被爆体験を学校や地域の集会に出て語る場合、多くても百人単位。継承というには不十分だし、高齢の被爆者の活動範囲は限られている。メディアが被爆の真実を伝え続けてほしい。

 新潟 山内悦子事務局長(77) 市女(現舟入高)4年、牛田町(東区)の自宅で
 原爆が落ちた事実さえ知らない子どもがいる、と地元の学校で聞いた。平和のありがたさを理解し、また平和を求める心を広げるため親の世代から教育する必要がある。

 富山 田島正雄事務局長(78) 暁部隊、江田島から救援のため入市
 いつか活動できなくなる日に備え、体験集を県内すべての小学校から大学まで配った。それを読んで多くの人が語り手になってほしいし、私たちも語り続けたい。

 石川 西本多美子事務局長(65) 段原末広町(南区)の自宅で
 被爆についての認識が石川県は薄い。国が教育の場で正しい知識を伝えず、2世、3世は「影響があるのでは」と今もみられ、親たちの被爆を隠してしまう。学校できちんと教えてほしい。

 福井 川端健夫会長(80) 広島高師(現広島大)、千田町で防空壕(ごう)を掘る作業中に
 活動の中心は、健康管理のための情報交換。会として政治的な運動や体験継承はしていない。私たちの体験を若者が歴史から自ら学び、くみ取ることを期待している。

 山梨 高橋健会長(80) 広高2年、牛田町の自宅で
 新聞が大本営発表をたれ流し、国民が唯々諾々と従っていた戦前と同じ雰囲気を感じている。平和のためのささやかな集まりも報道するなど、メディアは2度と過ちをしないよう努めてほしい。

 長野 前座良明会長(85) 宇品町(南区)の船舶司令部事務所で
 平和は、祈り、願うだけでは実現しない。行動を通じて築かれる。私たちが体験した真実をできる限りの方法で、多くの若者に伝え続けたい。

 岐阜 木戸季市事務局長(66) 長崎市で母と
 原爆を浴びても、米国に報復しろと思わなかった被爆者の思想は素晴らしい。憲法九条など今日の問題への考えも若者に伝え、新しい語り手になってもらう。押し付けてはいけない。

 静岡 川本司郎会長(69) 西蟹屋町(南区)の橋の上で
 世界の国民一人一人が核兵器を無くす気にならないといけない。まずは核保有国の元首が広島・長崎を訪れ、原爆の悲惨さを知るべきだ。

 愛知 遠藤泰生事務局長(76) 一中(現国泰寺高)、動員先の南観音町(西区)の工場で
 月に一回、名古屋の繁華街で核兵器廃絶や原爆症認定の必要性を訴えている。平和ゼミナールの高校生や大学生も参加してくれる。若い人たちとの連携を大切にしたい。

 三重 嶋岡静男会長(80) 暁部隊、救援のため広島へ入市
 今も核兵器を開発する科学者は真実を知らない。原子雲の下でどういう地獄があったのか。日本の政治家も被爆体験を聞くよう、国会で証言の場を設けるべきだ。

 滋賀 小寺博会長(82) 鉄道第2大隊が駐屯した楠木町(西区)で
 突然に命を奪われ、20万人を超えた犠牲者の無念さを引き継ぐのが被爆者運動の精神だろう。原爆の投下から61年たっても死没者を悼み、平和のありがたさを胸に刻む重要性は変わらない。

 京都 平塚哲夫会長(83) 黒瀬町(東広島市)の賀茂海軍衛生学校から救援のため入市
 被爆者の訴えが特定の政党の運動方針や勢力争いに利用された面がある。被爆者運動が一般の市民から政治運動と誤解され、残念でならない。

 大阪 武久煕専務理事(81) 千田町の工専(現広島大)校舎で
 「相手が悪い」と言い募ることが、すべての争いの原因。被爆者はひどい目に遭っても「やり返してやる」という思いをぐっとのみ込んだ。世界の指導者は相互理解の精神を知るべきだ。

 兵庫 園辰之助理事長(90) 駐屯先の楠木町で
 原爆の悲惨さをありのままに語り伝えることが大切。最近は誇張が目立つ。あと10年もたてば証言できる被爆者はほとんどいなくなる。体験記を地元の学校や図書館にさらに贈りたい。

 奈良 市原大資・前会長(82) 中国憲兵隊として広島駅で
 核兵器で「平和」を守る保有国の考え方に被爆者の願いが負けている。高齢のため被害者の会を解散した今、情けなく、腹立たしい思いがする。

 和歌山 楠本熊一会長(81) 文理科大(現広島大)1年、大手町(中区)の友人宅で
 平和団体の集いで被爆体験を語っているが、参加する若者が減っている。彼らが関心を持つよう、教育の場でも原爆被害の実態を教えていってほしい。

 鳥取 浅木弘会長(82) 救護所となった船越町(安芸区)の兵舎で
 亡くなる会員が年々増え、心細い。原爆被害の実態を伝える人がいなくなったら、再び核兵器が使われるのではないか、と不安を感じている。

 島根 竹谷博会長(78) 二中(現観音高)4年生、動員先の南観音町の工場で
 原爆でどれだけの人が命を落としたのか。政府は戦争全体の実態把握に乗り出すべきだ。平和の尊さをかみしめ、訴えを言葉遊びに終わらせてはいけない。

 岡山 妹尾要会長(75) 糸崎鉄道学校から動員された広島駅で
 「あんな地獄は2度といやだ」。核兵器廃絶を訴えても保有国の耳に届いていないが、原爆の恐ろしさを語ることでしか伝わらないと思う。被爆者の高齢化で組織が衰え、いつまで語り継いでいけるかは自信がない。

 広島 坪井直理事長(81) 工専3年、登校中の富士見町(中区)で
 国内外で命ある限り被爆の実態を訴え続けていく。核兵器の製造と使用をやめさせるためには、正義と人道に基づく精神文明を打ち立て、高めることが必要だ。

 同(金子一士理事長) 末宗明登副理事長(80) 国鉄職員、広島駅で
 核兵器の本当の怖さを知る私たちが、若い世代に体験を語ることで願いを未来につなげたい。しかし被爆者がいなくなったらどうなるのか、不安が尽きない。

 山口 渡辺栄次事務局次長(57) 非被爆者
 ゆだ苑(県原爆被爆者福祉会館)の職員となり37年、運動を継承する難しさを日々感じている。戦争体験者と若者との出会いの場をつくり、対話を重ねながら今の時代に対応できる継承のあり方を考えていきたい。

 徳島 高橋博会長(77) 陸軍兵器学校分教所生徒、比治山本町で
 被爆体験の証言を求める学校が5年前くらいから減り始め、最近は要請がほとんどない。原爆が教えられなくなり、日清、日露戦争のように日本人の記憶から消えてしまうのだろうか…。

 香川 久保敏夫会長(79) 国鉄機関士、乗務で広島に入市
 あらゆる生物の命を奪い、放射線の影響を未来に与え続ける核兵器は、人類と共存できない。人類が自滅しないために人間の理性に期待したい。

 愛媛 松浦秀人事務局長(60) 南観音町で暮らしていた母の胎内で
 被爆体験記を、平和学を学ぶ愛媛大の学生と一緒に編さんした。平和に関心がある若者でも被爆者への偏見や放射線の健康被害について意外に知らない。交流しながら語り伝えていきたい。

 高知 岩井啓之会長(80) 暁部隊、山口県から救援のため広島に入市
 放射線被害に国境はない。核兵器は地球を破壊し、使う国も使われる国も被害を受けることを、世界の指導者は肝に銘じてほしい。

 福岡 山崎一馬事務局長(80) 徳島高1年、学徒動員先の日本製鋼所(船越町)から救援のため入市
 核兵器廃絶を実現するためには国連の機能強化が必要だ。核超大国の米国が反対すれば議論のすべてがストップする現状を、物事が道理で動く仕組みに変えてほしい。

 佐賀 吉冨安美会長(77) 学徒動員先の三菱長崎兵器製作所で
 政治家に原爆の悲惨さを訴えても、戦後生まれがほとんどのためか反応は鈍い。被爆者のあきらめムードをこれ以上広げないよう政治家は被爆の実態を直視してほしい。

 長崎 山田拓民事務局長(75) 長崎中2年、校舎内で
 被爆体験を語り継ぐことは、原爆被害の告発でなければならない。原爆を歴史のひとこまだとして風化させ、核兵器が存在することを当然と見なす政治的な動きに対抗するため、継承活動を粘り強く続けたい

 熊本 中山高光事務局長(77) 三菱重工業長崎造船所で
 原爆では被害者だった日本人も、中国戦線や真珠湾では加害者だった。米国で被爆体験を何度か証言した。まず真珠湾攻撃を謝らないことには訴えに耳を傾けてもらえない、と痛感した。

 大分 奥城和海会長(69) 長崎市の親族宅で
 平和の訴えが市民に一部の団体の活動としか受け止められていない。平和行進などもマンネリ化し、切実感に欠ける。訴えを市民に広げるには、違う考えの人々と論議する柔軟さが必要だ。

 宮崎 児玉節男事務局長(66) 長崎市の自宅で
 子どもに61年前の体験だけを話しても、身近な問題と受け取ってもらえない。被爆者が苦しみ続けた健康被害や差別、偏見も包み隠さず話すことで原爆の本当の恐ろしさが伝わると思う。

 鹿児島 今村鉄夫会長(79) 陸軍兵器学校広島分教所生徒として救援のため広島に入市
 被爆者運動の力のなさもあるが、原爆や平和に無関心な人たちが多い。平和団体の集いへの参加者はいつも同じ顔ぶれ。戦後世代を引き入れたいと思っても願いが届かず、もどかしい。

 沖縄 伊江和夫事務局長(77) 三菱重工業長崎造船所で
 米軍基地が密集する沖縄では、政府の「非核三原則」が空念仏に聞こえる。原子力潜水艦の寄港も日常化し、核兵器と背中合わせの恐ろしさを感じている。非核三原則を法制化し、中身のあるものにしてほしい。


被爆者運動の主な歩み

1951・ 8・27 広島で「原爆傷害者更生会」結成
1952・ 8・10 広島で「原爆被害者の会」結成
1955・ 4・25 広島の下田隆一さんら被爆者3人が国を相手取って損害賠償請求訴訟を東京
           地裁に提訴。27日、大阪でも2人が提訴
      8・ 6 第1回原水禁世界大会が広島で開会
      9・19 原水爆禁止日本協議会が発足
1956・ 3・18 原爆被害者広島県大会が広島市で。大会の代表約40人が20日に初の国会請願
      5・27 広島県原爆被害者団体協議会が結成
      8・10 日本原水爆被害者団体協議会が発足。事務局を広島に
1957・ 3・25 英水爆実験の中止を求め、被爆者が原爆慰霊碑前で座り込む
      4・ 1 原爆医療法が施行
1961・ 2・17 日本被団協が被爆者援護法を求め、日比谷から新橋まで初の街頭行進
     11・15 核兵器禁止平和建設国民会議が発足
1962・ 8・ 7 日本被団協の定期総会で、11県連盟が「日本原水協からの脱退か原水協、核禁
           会議の同時加盟」を動議
1963・ 8・ 5 第9回原水禁世界大会が分裂
     12・ 7 「原爆訴訟」で東京地裁が8年ぶりに判決。「原爆投下は国際法違反」
1964・ 3・ 7 参院本会議で原爆被爆者援護強化決議 案を可決。4月3日、衆院も可決
      6・20 日本原水協が森滝市郎日本被団協理事長、浜井信三広島市長ら10人を除名
1965・ 2・ 1 原水爆禁止日本国民会議を総評など13団体が結成
     11・ 1 厚生省が初の全国被爆者実態調査
1966・ 6・26 日本被団協が、原水禁運動分裂による組織内部対立で1年7カ月ぶりに広島
           市で全国総会。紛糾の末、「当面、いかなる原水禁運動組織にも加盟しない
           立場を貫く」方針を承認
     10・15 日本被団協が「原爆被害の特質と被爆者援護法の要求」(つるパンフ)を発表
1968・ 9・ 1 被爆者特別措置法が施行 
1969・ 3・26 原爆医療法の認定患者申請を却下された尾道市の桑原忠男さんが国を相手
           取って処分取り消し請求訴訟
1970・ 8・31 日本被団協が代表委員制を新設
1972・ 8・ 4 山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑の戦後世代の職員3人が被爆者援護の
           充実を訴え、田中角栄首相に直訴の要望書
1973・ 5・17 原爆白内障の認定申請を却下された広島市の石田明さんが国を相手取り、
           却下処分取り消し請求訴訟
      8・ 2 日本被団協が原水禁3団体に統一問題で初めて要望書を提出。「原水爆の完全
           禁止、被爆者援護法の制定には運動統一が必要」
1974・ 2・14 地域、職域被爆者14団体が「広島被爆者団体連絡会議」(近藤幸四郎事務局長)
           を結成
1975・ 6・ 7 広島県被団協(森滝理事長)が定期総会。被爆30周年を期し、原爆死没者名簿へ
           の記入運動を進め、死没者数を明らかにする運動方針を決定
1976・ 7・27 「石田訴訟」で広島地裁が原告の勝訴判決。「原爆医療法は国家補償法の側面を
           持つ」。8月10日、国は控訴を断念
1977・ 4・ 4 被爆者援護法の制定を求め2つの広島県被団協が分裂後初の統一決起集会
1978・ 3・30 「孫振斗裁判」で最高裁が「国家補償的配慮が制度の根底にある」と1、2審
           判決を支持。在外被爆者への手帳交付が認められる
      5・22 第1回国連軍縮特別総会に日本被団協が代表団を派遣
1980・12・11 厚相の私的諮問機関の原爆被爆者対策基本問題懇談会が被爆者対策に関する
           意見書を提出。国家補償による被爆者援護法に否定的見解
1981・ 2・ 7 被爆者援護法制定を訴え、日本被団協が国の戦争責任を裁く「国民法廷」運動
           を決定
1982・ 3・25 日本被団協が世界に派遣する被爆者「語り部の旅」第1陣2人が欧州へ
1985・ 6・ 6 日本被団協の被爆者訪米団が出発。核 保有5カ国への代表派遣第1陣
1986・ 8・ 5 日本被団協が広島で結成30周年「被爆者・遺族集会」を開く
1987・ 2・ 8 日本被団協が高齢化した被爆者の運動再構築のため「長期活動展望」策定へ
1992・ 4・24 被爆者援護法案が参院で可決。衆院解散で廃案
1994・12・ 9 自民、社会などの連立政権下で「被爆者援護法」成立。国会初提出以来35年ぶり
           の実現。国家補償と死没者への個別弔意は明記されず、生存被爆者対策が柱
1995・ 6・ 4 日本被団協が援護法に国家補償を明記する法改正を運動方針に決定
      7・ 1 被爆者援護法が施行
2002・12・ 5 韓国の郭貴勲さんが健康管理手当の支給などを求めた控訴審で、大阪高裁が
           1審判決を支持。厚労省は18日上告を断念し、在外被爆者に手当支給へ
2005・12・10 ノーベル平和賞の授賞式で、委員会が「ヒダンキョウ」の活動をたたえる
2006・ 5・12 原爆症認定申請の却下をめぐる集団訴訟(14地裁)で、大阪地裁が現行
           認定基準は「機械的」に適用して判断することは相当でない」と原告勝訴の判決

(2006年8月1日朝刊掲載)

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