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連載・特集

故郷を逃れて 3・11から3カ月 <3> 二重生活

■記者 川井直哉

娘と別れ会社再建急ぐ  今月上旬、福島県いわき市の38歳の母親が、JR線を乗り継ぎ約7時間かけて広島市安芸区に帰省した。一人暮らしの実母(65)方に避難中の娘3人に会うためだ。震災後、広島と福島を行き来する二重生活が続く。対面は10日ぶりだった。

 出発直前まで、夫(41)が経営する事務機器販売会社の事務をこなした。社員10人の中小企業。震災後、顧客の入金は途絶えた。悩んだが「お客さんとともにいわきで復興していくには、社員の力がいる。やろう」。夫婦で話し合い、3月中に業務を再開し踏ん張る。

 ただ、被災した取引先も多く、収入は激減したまま。会社の運転資金、社員の給与…。経理を担う責任を感じながらも、遠く離れて暮らす子どもたちの顔が浮かぶ。外出中も「ママ」と呼ばれた気がして振りかえる。

 3月12日。震災翌日には「原発が危ない」とのうわさが広がっていた。自宅は福島第1原発の南西約35キロ。行けるところまでと、車で東京を目指し、母子4人はまもなく広島へ向かった。夫は、支援物資を積んでいわき市に戻り、会社と地域の再建に奔走してきた。

 夫婦にとってこの3カ月は「あっという間だった」。余震が続き、原発への不安も募る。「仕事中に何かあれば、子どもたちを守れない」。二重生活は苦渋の決断だった。この間、長女(12)は広島市の中学に進学した。同市で小学5年となった次女(10)の運動会には出てやれなかった。園児の三女(4)は、顔を見るたびに少し大きくなった気がする。

 会えば元気を振りまく娘たち。でも、親子離れ離れのつらさが時折、のぞく。思春期の長女は「笑っていいのか迷う」とぽつり。

 そばにいてやれない自責の念、仕送りもできず子育てを押し付けた格好の実母の体調も気掛かりで、娘3人を福島に呼び戻そうと考えたことも。しかし、原発事故の収束のめどさえ立たず、諦めるしかなかった。

 避難生活の長期化は避けられそうにない。震災から3カ月が近づく今月6日、実家近くに2DKのアパートを借りた。会社は夫に任せ、自分は広島で仕事を探して3人の娘と暮らそうと決めた。「みんなで、いわきに帰ろう」。胸に誓い、新しい生活を始める。

(2011年6月14日朝刊掲載)

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