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連載・特集

故郷を逃れて 3・11から3カ月 <4> 放射線

■記者 山本堅太郎

原発への恐怖 生活一変

 今月4日未明。福島市から広島市安佐北区の実家に生後5カ月の長男と避難している渡部美和さん(36)は、揺れで跳び起きた。地震はすぐに収まったが、島根原子力発電所(松江市)の状況が気になった。放射能漏れはないか、また逃げることにでもなれば…。恐怖をひしひしと感じた。

 自給自足に憧れ、学生時代から通っていた福島市に2006年に移り住み、田畑を作ってきた。パートナーで介護職の等々力隆広さん(48)との間に今年1月、長男波志良(はしら)ちゃんを授かった。「この子は豊かな自然の中で育つんだ」。幸せを感じていた。

 震災当日、渡部さんは福島市の自宅で、波志良ちゃんを抱えて外へ飛び出した。波のようにうねる地面。携帯電話はつながらない。周囲は停電。真っ暗な夜、泣き続ける波志良ちゃんを抱き、等々力さんの帰りを待った。

 翌日、約50キロ離れた福島第1原発での爆発事故。広島で被爆した親類から聞いた放射線の恐ろしさが頭をよぎった。「放射性物質が降ったと思うと、土に触るのさえ怖くなった」。子どもを守ろうと3人で福島市を離れ、3月17日に広島の実家に逃れた。

 渡部さんは広島市内の病院で波志良ちゃんに放射線量のスクリーニングを受けさせた。自らの母乳に放射性物質が含まれていないか検査した。その後も、原発事故に関する情報を新聞で集め、被爆者や被災者同士の交流会にも参加した。

 「原発への関心はなかったけれど、こんな生活を強いられ、今は違う。この子が将来不安に思わないよう、できるだけのことはしたい」

 今月11日には「脱原発」を掲げる全国一斉の市民運動に等々力さんと初めて加わった。原爆ドーム前を埋めた約300人に「私は被爆3世。また、不安を抱えて生きなくてはならないのか」と胸の内を明かした。「被曝(ひばく)の実態が福島の人に伝わるよう、力を貸してほしい」と呼び掛けた。

 福島市に戻って訪問介護の仕事を続ける等々力さんは月に1度、数日間の休みを取って広島を訪れる生活。「農業をやりたいし、子どもにとっても家族一緒に暮らす方がいい」と話す。約50キロ離れた山形県米沢市での再出発を探る。

 渡部さんも同じ思いだが、今は戻る気持ちになれない。田も畑も家も奪った原発事故の現実と向き合う日々が続く。

(2011年6月15日朝刊掲載)

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