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連載・特集

シンポ「ヒロシマを世界へ―原爆・平和報道を考える」詳報

核被害者の思いに立脚を

 「ヒロシマを世界へ―原爆・平和報道を考える」シンポジウム(中国新聞社主催)が12日、広島市中区の平和記念公園にある広島国際会議場で開かれた。日米の研究者を交えた4人が、NHK広島放送局の杉浦圭子アナウンサーの司会で議論を交わした。約210人が聞き入り、意見や質問も寄せた。被爆地広島からの訴えと報道は、核兵器が存続する世界に届いているのか。史上最悪の福島第1原発事故による新たな核被害についても、どのような視点や取り組みが求められているのか。約2時間に及んだ討議の内容を伝える。


<パネリスト>

元広島市長                 平岡敬さん
広島市立大教授              井上泰浩さん
米国オハイオ州・オービリン大教授   アン・シェリフさん
ヒロシマ平和メディアセンター      田城明センター長

<司会>

NHK広島放送局アナウンサー     杉浦圭子さん


今日的な意味

 ―被爆者とその体験を受け継ごうとする人々の不断の努力によって、広島は人類史的な意味を持つヒロシマになりました。福島第1原発の事故の影響が広がるなか、「原爆・平和報道」を考える意味から伺います。

 平岡 福島原発の深刻な事態から二つのことを考えている。人間は放射能をコントロールできない。人間にもたらす甚大な被害において原子力の軍事利用と平和利用との区別はない。もう一つは正確な情報をきちんと出すことだ。広島では米軍の占領期に研究発表や報道も制約され、被爆者の健康管理と生活支援が遅れた。これを教訓にしてほしい。

 井上 3月下旬に米国を訪れるとフクシマの話ばかり。海外から日本へ来る学生の数も大幅に減っている。放射能が怖いからだ。メディアがイメージや世論をつくっている。インターネットで世界が結ばれても、メディアが果たす役割は重要だし影響力は大きい。

 シェリフ 米国のメディアは原爆の悲惨さやフクシマについて正確な情報を発信していない。ヒロシマの訴えが核技術に依存しない世界をつくるものであるなら、原爆と原子力エネルギーの関連性も明らかにしてほしい。詳しい情報と歴史の理解がなければ市民はリスクとメリットを判断できない。

 田城 核をめぐる普遍的な事柄を日本語で伝えても世界にはなかなか伝わらない。中国新聞社は2008年に核と平和に関する専用サイトを設け、英語でも発信を始めた。世界に報じる営みは始まったばかりといえる。


歴史をどうみるか

 ―被爆から66年。報道はどう形づくられてきたのでしょうか。

 平岡 その時々の政治や国際情勢の制約を受けてきた。1945年から占領が明ける1952年までは報道の空白期。占領軍は報道を検閲して原爆の残虐性を知らせなかった。記者も放射線障害についての知識が足らず、市民の願いである復興の報道に力点を置いた。1954年に(米軍の水爆実験による)ビキニ事件が起き、原水爆禁止運動が一気に高まった。報道は原爆被害の悲惨さを強調し、1957年の原爆医療法制定につながった。被爆者を聖人化する見方も生まれた。

 ―歩みは一筋ではなかったわけですね。

 平岡 70年代からは政治のはざまに置かれた被爆韓国・朝鮮人が日本の戦争責任を問いだした。1991年に東西冷戦が終わると人間と核との関係を考えるようになる。被爆地からの報道はローカルからナショナルに、そしてインターナショナルなものに変わっていった。核兵器の廃絶と平和を願う国民意識を醸成するうえでは大きな役割を果たした。だが日本の加害責任や米国の原爆投下責任、日米安保の問題を明らかにする報道には欠けていた。

 田城 記者となり、核実験や1986年のチェルノブイリ原発事故による核被害者がいることに関心を持った。1989年から翌年にかけ取材に参加した「世界のヒバクシャ」は15カ国の核被害者の実態をルポした。2000年代初めにも米国や旧ソ連を回り、原発の使用済み核燃料の再処理工場がある青森県六ケ所村を訪ねた。「早い時期に『脱原発社会』へ方向転換を」と連載をまとめた。今日に至る問題点を先取りしたと思うが、国のエネルギー政策を転換させる影響力は持ち得なかった。

 ―放送も、「反核・平和」を報道の主軸のテーマとしてきました。取り上げ方は時代状況を反映しています。テレビ放送開始50年の2003年には、私もかかわったNHKスペシャル「核の時代に生きる人間の記録」は、その時点で500本を超えていた核関連番組を俯瞰(ふかん)し紹介しました。市民に呼び掛けた「原爆の絵」募集の手法は、近年の「ヒバクシャからの手紙」にもつながり、被爆体験の継承に役立てています。 


世界での受けとめ

 ―ヒロシマの訴えは世界でどう受けとめられているのか。井上さんは被爆60年にメディアの報道ぶりを詳しく調べられました。

 井上 日本との歴史的、政治的な関係で大きく違った。原爆投下をめぐっては四つの解釈がある。一つは米国の有力紙が当時の大統領トルーマンをたたえたように「救い、戦争終結」とする見方。二つ目は米国の同盟国だが、英国では「人間に対して行った非道な行為」との報道が結構なされた。フランスのル・モンドは1面に「市民虐殺」と描いたイラストを載せた。ドイツでは原爆をホロコースト(大量虐殺)と同じようにみる報道が多かった。

 三つ目は「残虐だが正当な目的があった」とするオーストラリアのような解釈。最後は「当然の報い」。中国や韓国の新聞で多かった。そもそも誰が戦争を起こしたのか、やったことはどうなんだととらえる。このほか、ロシアのように報道しない解釈もあった。

 ―米国では、日本の原爆被害の語り方をどうみていますか。 

 シェリフ この10年「核時代の文化」という講座を歴史学の同僚ともっている。学生は、初めは原爆投下はやむを得なかった、過去の出来事にすぎないと言う。ところが、英訳された被爆者の証言や原爆文学を読むと感動する。自国の核兵器や原発の問題を学ぶ意欲をかき立てられている。ヒロシマ・ナガサキの歴史とともに学ばなくてはいけないと思うようになる。

 ―では、今回の福島原発事故はどう受け止められていますか。 

 シェリフ このシンポに参加する前に大学の同僚や近所の人にも聞いてみた。ヒロシマ・ナガサキの経験があるから日本人は核の怖さを知っている、地震国だから原発は造らないだろうと思っていた、と多くの人が今回の事態に驚いている。

 ―日本人の平和観は「戦争はしない」「核兵器廃絶」です。米国人の平和観は。

 シェリフ 核兵器は米国人のアイデンティティーの一部となっており、メディアも問題にしない。来日前に中国新聞のサイトを見て、米国が実験場を必要としない核実験を(昨年11月と今年3月に)実施したことを知った。米国では全く報道されていない。核兵器と原発の実態や歴史を学ぶことが大切だ。

 平岡 私たちは核兵器廃絶は当然と思っているが、拒絶されたことが3回あった。65年に取材で(10代を過ごした)韓国を再訪すると、「原爆が落とされ解放された」という人が多数いた。2度目は広島市長として95年にワシントンのアメリカン大であった原爆展で講演した際、アジア系の学生らは「日本人に殺された同胞はものを言えない」と異議を唱えた。3度目は98年。インド政府に「核実験をやめてほしい」と求めたら、「日本政府に米国の『核の傘』から出るよう主張するべきだ」と言い返された。

 ヒロシマが伝わらない理由は二つある。まず戦争の総括がなされていない。「大東亜戦争」「アジア・太平洋戦争」と名称が定まらず、国会は「先の大戦」と言う。戦争の性格に合意ができていないからだ。もう一つは「核の傘」の下にいながら国際社会に核兵器廃絶を訴える矛盾だ。


願いを届けるには

 ―ヒロシマの願いを世界の人々へ確実に届けるには、さらにどんな取り組みが必要だと考えますか。

 田城 地道に伝えることだと思う。被爆者が各地へ出かける、広島市が原爆展を開く。戦争の総括や「核の傘」の問題についても、情報を受け取る相手ときっちりコミュニケーションできる言葉を持つ。中身のある報道をネットも使って国内外に発信することで前進していくはずだ。

 シェリフ 核兵器廃絶だけでなく、原爆と原子力エネルギーの関係を問い直し、自然との共生を訴えていかなければならない。中国新聞のサイトには、広島で被爆し、原発事故で避難した男性の俳句が載っていた。「目に見えぬ ものに逐(お)われて 春寒し」。こうした記事や俳句を読めば世界はヒロシマとフクシマを身近に感じるだろう。

 井上 インターネットの開発は冷戦期、米国がソ連の核攻撃を受けても通信網が破壊されないようにするためだった。広島原爆から始まったともいえる。世界最大級の旅行サイトを見ると、日本のどこが素晴らしかったかの投票で1位が宮島であり、2位は平和記念公園・原爆資料館だ。コメントを読むと感動する。世界の若い人たちはヒロシマを勝手に広めてくれている。こうしたネットの力を使わない手はない。

 平岡 核兵器の廃絶を実現したら平和が来るのではない。貧困や人権侵害、環境問題。平和を脅かす要因は幾多もある。廃絶の先にどんな社会をつくるのかをわれわれは言わなくてはいけない。そうなって世界の人に訴えは届く。また、市民や行政が行動を起こさなければニュースは生まれない。核兵器廃絶を訴え続けるだけでは世界には伝わらない。

 ―会場からご意見や質問を受け付けます。

 聴衆 作家の村上春樹さんが福島原発の事故に触れて「日本人は2度目の核被害に遭ってしまった」と先日講演した。パネリストの考えを聞きたい。

 田城 村上さんが引用した、原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文は、核兵器は使うな、戦争はするな、核被害者をつくるな、との誓いだと思う。原発がいったん暴走すると人々の暮らしを根こそぎ破壊してしまう。チェルノブイリもそうだった。核エネルギーに依存しない社会をできるだけ早くつくっていくべきだ。

 聴衆 ヒロシマの解釈は4点あるというが、どういう立場で伝えていけばいいのか。

 井上 メディアは決して中立的に伝えているのではない。例えば中国新聞の報道は被爆者の視点に立っている。この姿勢を貫くことが大切だ。ただ、世界にはさまざまな視点があるので、それをうまく折り込まないと反発を買う。理解してもらえない。

 平岡 国家や会社とかの立場でなく、平和に生きていく人間の立場でものを考え、伝えていくことだと思う。

 ―原爆についての戯曲を書き残した井上ひさしさんの言葉に「記憶し、抗議し、生き延びよ」があります。討論を踏まえれば、日本の加害と被害を記憶し、非人道的な核兵器とは共存できないと抗議し、人類が共に生き延びよう、となります。インターネットを使えば、市民が平和のメッセージを世界に直接届けられる。手紙を書いてメディアに寄せてもいい。誰もが諦めず、とにかく伝え続ける。そういうことが大切だと思います。


ひらおか・たかし
 広島市西区出身。早稲田大卒。1952年中国新聞記者となり、1965年の「ヒロシマ二十年」(日本新聞協会賞)取材を率いたほか、在韓被爆者の救援にもいち早く取り組む。中国放送社長を経て1991年から8年間広島市長。著書に「希望のヒロシマ」など。

いのうえ・やすひろ
 山口市出身。毎日新聞記者などを経て米ミシガン州立大で博士号を取得。2001年から広島市立大勤務。2007年教授。専門はメディア論。講座「ヒロシマと平和」では、幅広い視点から考える講義を英語でもしている。著書に「メディア・リテラシー」など。

アン・シェリフ
 米オクラホマ州出身。1991年、ミシガン大で博士号取得。専門は日本文化研究。オービリン大では「核時代の文化」の講座を受け持ち、広島で被爆した作家原民喜についても研究、紹介している。著書に「日本の冷戦 メディア・文学・法」など。

すぎうら・けいこ
 広島市安佐南区出身。早稲田大卒。1981年NHK入局。キャスターや司会を務めた原爆・平和関連の番組に、NHKスペシャル「一番電車が走った」「平和巡礼2005ヒロシマ・ナガサキ」など。

たしろ・あきら
 兵庫県洲本市出身。1972年中国新聞入社。反核・平和をテーマにした国際的な取材を続ける。「知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態」などで2003年に「日本記者クラブ賞」を受賞。著書に「現地ルポ 核超大国を歩く」など。

(2011年6月20日朝刊掲載)

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