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連載・特集

被団協結成55年 運動の行方 問い直す国の責任

■記者 岡田浩平

「脱原発」の訴え強化

 広島、長崎で原爆に遭った被爆者たちでつくる唯一の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協、東京都港区)。1956年の結成から55年の今年、運動の中心を「原爆被害に対する国の償い」の実現に据え直し、福島第1原発事故を受け「脱原発」の訴えも強める。平均年齢が76歳を超す被爆者が展開する運動の現状と、今後の展望を報告する。

 東京・お茶の水のホテルで6月7~8日に開かれた56回目の定期総会。全国から110人余の被爆者が参加した。最も重要な議題は足かけ2年、議論を重ねた被爆者援護法(94年成立)の改正要求の決定だった。

 「原爆被害者は国に償いを求めます」との要求は、原爆被害全体への国の償いを求め、原爆の障害を現行法が規定する放射線だけでなく熱線、爆風も含めてとらえ直す。放射線被害に特殊化された「被爆者」の定義も変わりかねない。原爆症認定制度も存続を前提にしていない。議論は1時間半余りに及んだが、執行部が期待した要求の掘り下げまでには至らず承認された。

 広島県被団協(坪井直理事長)の木谷光太事務局長(70)は「現行法が成立した時は国家補償が盛り込まれていないという怒りが渦巻いたが、あれほどの熱意は感じられない」と振り返った。日本被団協の木戸季市事務局次長(71)は「要求ができて終わりではない。被爆から66年の私たち自身をさらけ出し、要求を自分のものにしてほしい」と言い聞かせるように話した。

犠牲者すべてに

 「国家補償の被爆者援護法」は被団協の宿願である。現行法が、当時の自民、社会両党などの連立政権下で成立した94年、緊急代表者会議は「魂ともいうべき『国家補償』は抜き取られ、(中略)核戦争犠牲の『受忍』をしいるものであり、やり場のない憤りを抑えることはできません」と批判したほどだ。

 しかし、再改正へすぐには動けなかった。法成立へ多大なエネルギーを割いた分、運動は一段落したという支援団体や世論の流れがあったためだ。2001年からは原爆症認定制度の見直しに向け集団申請、集団訴訟に力を注ぐ。「国家補償」が前面に出なかった間に、現行法成立時の運動の担い手が退き、世代交代も進んだ。

 こうした背景の中で今年、運動をリセットした。その思いは改正要求の前文で次のように説いている。

 「原爆被害はさかのぼれば戦争という国の行為によってもたらされた以上、被害を国が償うのが当然だ。しかし、最大の被害者である原爆死没者は無視され見捨てられた。孤児、遺族、仕事と財産をなくした人も原爆犠牲者だ」

 多大な原爆被害の責任を国に認めさせ、謝罪と補償を約束させる。それが、ひいては核兵器の使用の回避、廃絶につながり「ふたたび被爆者をつくらない」という被爆者の願いに帰結するとの哲学を込めている。

 「被爆者の運動は苦しいから手当をくれというのではない。人類のために核兵器をなくさねばならないという思いで一貫している」。被爆者の生活調査を通じて約40年、運動にかかわってきた元事務局員の栗原淑江さん(64)=東京都杉並区=は強調する。

 総会では、福島での事故を受けて原発への姿勢も問われた。「既存の原発を順次停止し、原子力エネルギーの利用は永久に行わないよう求める」「放射線被害では共通するのに原発にはノーと言ってこなかった反省に立つべきだ」

 こうした声を受けた被団協は7月13日、都内で代表理事会を開き、原発の新設、増設計画の撤回と既存の54基の原発の段階的停止、廃炉に踏み込んだ。「世間の関心は原発問題だ。被爆者の運動を広げるきっかけにしたい」と、伊方原発がある愛媛県原爆被害者の会の松浦秀人事務局長(65)は訴える。

 ただ、「脱原発」をどう運動として展開していくかは未知数だ。実際、「原爆と原発被害は違う」との声も代表理事会で上がった。

担い手不足懸念

 何よりこうした運動を進める上で最大の課題は、あの日の体験を身をもって語れる被爆者の高齢化だ。中国新聞が被団協に加盟する全国48団体(広島県内は2団体)を対象に06年に実施した調査で運動を「あと10年」と考える組織が目立ち、2世組織があるのも5団体にとどまった。市民団体と慰霊祭を共催するなど運動を広げる試みも始まったが、担い手不足を懸念する声は高まる一方だ。

前進は草の根で

 被団協の田中熙巳(てるみ)事務局長(79)は、福島から新たな核被害が広がる中、被爆者にできることをこう語る。「放射線被害について国が伝えていなくて私たちが知っていることを伝える。私たちが勝ち取ってきたものを教える。それらを分かちあうよう努めたい」

 被爆者の運動は心身に刻まれた苦しみ悲しみや、そこからの願いを基に起こった。核兵器廃絶と「原爆被害に対する国の償い」「脱原発」は草の根レベルで広く訴え、受け止められて前進する。明確な記憶がない被爆者、被爆2世、3世、そして非被爆者へ。伝え、受け止め、また伝えるという営みに一人でも多くの人間が加わる。被爆者に寄り添い、背負ってきた課題を受け継ぐ時は迫っている。


浜谷正晴一橋大名誉教授に聞く
若者との交流 カギに

 被爆者運動に長年かかわってきた浜谷正晴・一橋大名誉教授(社会調査論)に、被爆者援護法の改正要求をはじめ今後の運動の見通しを聞いた。

 ―現行法の改正要求をどうとらえていますか。  1995年に施行されて以降、国家補償に被爆者運動が正面から取り組むことはできない時期が長かったため、高齢化が進み、運動の担い手が代わってきた。今年、「原爆被害に対する国の償い」を正面にたてて運動を再構築した意味は大きい。新しい担い手にとっても償いというのが重要な課題になる。

 要求は、今まで議論はされてきたが解決されていない点について、これから新しい考えで取り組む必要性を提起した。まとまったから終わりでなく、大事なポイントを打ち出した、ととらえた方が積極的な意味合いが出てくる。

 ―死没者弔慰金などは戦争被害に対する国の「受忍」政策がたちふさがっています。  国の戦争責任を見据えながら戦争被害への国家補償のあり方を追求し続けてきたのが被爆者運動の特質だ。同様に補償を求める空襲被害者の運動も六十数年かかって今、全国に広がりつつある。いまだに、無差別殺人を引き起こした戦争被害に対する補償の動きが出ていることを過小評価してはいけない。

 ―被爆者の間でも「実現は難しい」との声があります。  60年余たって運動がだんだん弱まっていくのは自然なこと。被爆者は年を召しているにもかかわらずエネルギーを持っているのはすごい。被爆の記憶がない人も運動の表に出てくるようになった。厳しい状況でまだまだ踏ん張っている。

 ―実現には世論の支持が欠かせません。  非被爆者は、被爆者の願いを積極的に受け止め、果たせる役割は何かを考えてほしい。特に、若者たちの平和活動は裾野が広い。被爆者運動は被爆者自身の運動ではあるが、関心を持っている若者とつながる場を被団協の周囲に広く、深くつくっていくのが大事だ。


被爆者運動と被団協の主な歩み

1945. 8. 6 米軍が広島に原爆投下。9日には長崎に
1955. 8. 6 広島で第1回原水禁世界大会開会
  56. 5.27 広島県原爆被害者団体協議会が結成
      8.10 日本被団協が結成。スローガンに「原水爆禁止運動の促進」「原水爆犠牲者の
           国家補償」など
1957. 4. 1 原爆医療法が施行され、被爆者健康手帳を交付
1961. 8.14 被団協定期総会で「国家補償に基づく援護法獲得運動」の方針決定
1966.10.15 被団協が「原爆被害の特質と『被爆者援護法』の要求」(つるパンフ)を発表
1968. 9. 1 被爆者特別措置法が施行
1973. 4. 2 被団協が「原爆被害者援護法案のための要求骨子」を発表
1974. 3.29 野党4党が「被爆者等援護法案」を共同提出
1976. 7.27 広島市の石田明さんが白内障の原爆症認定を求めた訴訟で広島地裁が原告
           勝訴の判決。「原爆医療法は国家補償法の側面を持つ」。国は8月10日に控
           訴を断念
1978. 3.30 韓国から密入国した孫振斗さんが被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟で、
           最高裁は原爆医療法の趣旨について「国家補償的配慮が制度の根幹にある」
           として一、二審を支持。在外被爆者へ手帳交付が認められる
      5.22 第1回国連軍縮特別総会に被団協が代表団を派遣
1980.12.11 厚生相の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇話会」が意見書を提出。国
           家補償に否定的で、戦争被害の「受忍」論を打ち出す
1981. 2. 7 被団協が被爆者援護法制定を訴えるため、国の戦争責任を裁く「国民法廷」運動
           を決定
1982. 3.25 被団協が世界に派遣する被爆者「語り部の旅」第1陣2人が欧州へ
1984.11.17 被団協全国代表者会議で「原爆被害者の基本要求」を制定。「核戦争起こすな、
           核兵器なくせ」「国家補償の原爆被害者援護法」を2大要求に掲げる
1989.12.15 野党6会派が共同提出した国家補償に基づく「被爆者援護法案」を参院で可決
           (衆院で審議未了、廃案)
1994.12. 9 自民、社会などの連立政権下で被爆者援護法が成立。国会初提出以来35年
           ぶりに実現も国家補償と死没者弔意は明記されず、生存被爆者対策に
1995. 6. 4 被団協が援護法に国家補償を明記する法改正を運動方針に決定
      7. 1 被爆者援護法が施行
2002.12. 5 韓国の郭貴勲さんが健康管理手当の支給などを求めた控訴審で、大阪高裁が
           一審判決を支持。厚生労働省は18日、上告を断念し在外被爆者に手当支給へ
2003. 4.17 原爆症認定集団訴訟が始まる。全国17地裁で306人が相次ぎ提訴
2008. 3.17 集団訴訟での連敗で厚労省の審査会が認定基準を緩和。がんなどは一定の
           被爆条件で「積極認定」
2009. 5.28 東京の集団訴訟で、東京高裁が新基準でも未認定の原告9人を原爆症と認め
           る。国が原告全員救済を検討へ
2009. 8. 6 集団訴訟の終結へ政府と被団協が確認書を締結。一審勝訴で認定、敗訴も救
           済へ
2009.12. 1 集団訴訟の敗訴原告に解決金を支払う基金に国が補助する法律が成立
2010. 5. 3 国連本部で核拡散防止条約(NPT)再検討会議開会。被団協が最大規模の代
           表団52人を派遣
2011. 3.11 東日本大震災、福島第1原発事故が発生
      6. 8 被団協が現行法改正要求を決定

(2011年7月18日朝刊掲載)

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