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連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 広島駅前 <上> にぎわう闇市 集う孤児

■記者 野田華奈子

ヒロシマの原点 次代へ

  2011年夏、東日本大震災に伴う福島第1原発事故で放射線への不安が社会を覆う。あらためてヒロシマの役割が問われている。その原点は記憶である。人類史上初めて原子爆弾によってもたらされた悲劇。想像を絶する過去を乗り越え、語る言葉はさまざまで、重い。命の尊さへの思いが脈打つ。いま被爆者の高齢化は進み、語り継ぐ残された年月は多くはない。半生を若者に明かす覚悟を決めた男性、病気と闘いながら伝え続ける人たち、被爆前の活気と一瞬にして廃虚と化した惨状を伝える品々…。被爆66年の夏、次世代へと記憶をつなぐ姿を追う。

「生き抜く力備わった」

 「この広島駅前が自分の原点」。9歳の時、原爆で両親や妹、弟を失った元広島市職員の加藤英海さん(74)=安佐南区=は、当時の名残を残す駅そばの猿猴橋でそう言った。闇市やバラックが並ぶ駅前で戦災孤児の仲間と生き抜いた。後年、市幹部として駅前再開発に立ち会う。破壊から復興へ。加藤さんは今、被爆都市の歩みと重なる半生を語り継ごうとしている。

 戦前、呉市で暮らしていた加藤さんは可部(安佐北区)の母の実家に疎開していた。1945年8月6日。可部小の校庭から立ち上るきのこ雲を見た。

 呉海軍工廠(こうしょう)の技師だった父は千田町(中区)の県立広島工業学校に出張していた。母と妹、弟たちきょうだいは広島市内の親戚宅にいたらしい。

    ◇

 何日かたって親戚と一緒に家族を捜しに入った市内は焼け野原だった。行方の手掛かりすらつかめなかった。「自分には帰る場所がもうない」

 親戚宅を転々とする生活が始まった。よくしてもらったが、肩身は狭かった。お代わりの茶わんを差し出せない。大人の顔色をうかがう毎日が嫌になり、家出を繰り返す。いつとはなしに広島駅前に居着いた。

 駅前は闇市の露店やバラックが軒を連ね、戦地から引き揚げた復員兵が行き交った。極度の物資不足。むしろを敷いただけの店先に多くの人が群がる。そんな熱気が、生きる糧を求めてさまよう孤児を引き寄せた。

 日々空腹だった。進駐軍を見掛けては「プリーズ、シュガー」とねだった。広島県北から出てきた仲間が帰郷した際に小豆やもち米を調達し、路上で火をおこし、調理したおはぎを売りさばく。靴磨きはクリームが買えず、こっそり唾をつけて磨いた。お金が入ると露店で雑炊を買い仲間と分け合った。

 寒い日は駅の軒下に敷いたむしろで仲間と抱き合って眠った。親戚が捜しに来てくれたが、駅前に戻った。加藤さんは明かす。「毎日ひもじかったが、自由だった。生き抜く強さを身に付けた」

    ◇

 戦前から駅近くの南区猿猴橋町で理容店を営む秋信邦之さん(89)は生々しく記憶する。「いろんな人が出入りし、一晩明けたら店先にバラックが立っていたことも。事件や火事は多いが、活気があった。これからだという空気が漂っていた」

 だが、戦後の混乱が収まるに連れ、孤児の居場所は駅前から消えていく。「似島学園(南区)に保護されたり、一帯を取り仕切っていたやくざに引き込まれたりした仲間もいた」と加藤さん。

 やがて加藤さんも駅前を離れ、親戚宅から中学に通うことが多くなった。就職や将来を考えるようになったからだった。被爆から4年余りが過ぎていた。

(2011年7月28日朝刊掲載)

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