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連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 広島駅前 <下> 廃虚の復興 自らを重ね

■記者 野田華奈子

再開発に汗、玄関口へ

 「70年は草木も生えぬ」とされた広島は、中四国地方最大の都市に復興した。元広島市職員の加藤英海さん(74)=安佐南区=は原爆で何もかも失い、懸命にはい上がった自分と、この街を重ねる。

 原爆で両親と妹、弟を亡くし、孤児仲間と少年時代に居着いた広島駅前。バラックであふれた一帯は今、117万都市の陸の玄関口としてさらなる整備計画が進む。

 駅南口は難航してきたB、Cブロックの再開発計画が再始動。駅北口には今春開業した外資系ホテルが入るビルやマンションがそびえる。加藤さんは若者や家族連れ、観光客でにぎわう駅前を見つめ「えらい変わった」と表情を和らげた。

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 被爆から4年余りが過ぎたころ。居場所の駅前から遠ざかった。中学校に進み将来を模索するようになったから。身を寄せていた親戚の理解で観音高校(西区)に進学した。

 だが、学校生活は長くは続かなかった。家族を失った寂しさを紛らわすように荒れ、他校の生徒とけんかを繰り返す。肺結核にもかかり、治療費が重くのしかかった。「これ以上迷惑は掛けられない」。高校2年で中退。職を転々とした。稼ぐために中身を知らされないまま劇薬が詰まった荷物も運んだ。

 そのころ、街に復興のつち音が響き始めた。1957年には市民球場が完成。加藤さんに、まちづくりに関わりたいとの思いが芽生える。まず市臨時職員の職を得た後、採用試験に合格し60年、正職員になった。

 「市役所では一心不乱に働いた」。主に建設畑を歩む。89年に都市整備局の部長に就いた。戦後の懸案だった段原再開発事業(南区)を手掛ける。92年には都市整備局長に昇進した。最後のポストで待っていた仕事が広島駅前の再開発。「自分の原点の場所」と再び向き合うことに強い運命を感じた。

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 戦後の混乱で地権者の権利関係が入り乱れた再開発は難航した。局長自らが地権者の説得に乗り出す。反対していた男性を訪ねたところ、父と同じ千田町(中区)の県立広島工業学校で被爆していたことが分かった。父とは面識はなかったが、懐かしんだ男性は同意の判をついた。「亡き父が導いてくれた」

 Aブロックの再開発は99年に完成し、福屋が入るエールエールA館が開業。当時、加藤さんはビルを運営する市の第三セクターのトップを務めていた。社長室がある12階から一帯を見渡し、廃虚からの変貌に涙が流れた。

 被爆66年、老いたわが身を感じる。自分にできることは若い人に体験を伝えること。その思いが募る。知人の教授の依頼を受け、秋に広島経済大(安佐南区)で学生に講演することが決まった。「自分は原爆で荒廃した街に育てられた。人生を終えるまでに全てを還元したい」

(2011年7月29日朝刊掲載)

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