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連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 鎮魂の画集 鉛筆画 消えた町の息吹

■平和メディアセンター編集部長 西本雅実

家族や友 生の証しを

 原爆投下で壊滅した広島が「消えた町 記憶をたどり」という画集となってよみがえった。「水の都」とも呼ばれた広島デルタの光景と暮らしを、爆心地となった現在の広島市中区大手町で育ち、家族5人を奪われた男性が、鉛筆で精密に再現した鎮魂の画集である。ヒロシマの体験と記憶を受け継ごうとする市民グループが編集した。

 西区に住む森冨茂雄さん(81)が描いた43点からなる。「平和記念公園の一帯は大勢の人が住んでいたのに一発の爆弾で町ごとなくなった。当時の写真も焼けてほとんどない。絵にしておけば、若い人たちに分かってもらえるんじゃないか」。60歳をすぎて描き始めた動機をそう語った。

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 屋号は「常友」。実家は平和記念公園とつながる元安橋東の「細工町49番地」で寝具店を営んでいた。被爆前に移った住まいも「鳥屋町19番地」。いずれも現在の大手町だ。

 「8月6日」、市立造船工業(現市商高)の3年生だった森冨さんは、動員先の三菱己斐分工場(西区)で落ちてきた屋根からはい出し、自宅を目指した。紙屋町交差点まで入ったが、それ以上は火炎の勢いに阻まれた。

 後日、自宅跡で見つけた骨を父修一さん=当時(42)=や弟2人、同居していた祖母、病死した母のめいのものと言い聞かせ納めた。復員した兄と焦土にバラックを建て戦後を歩みだす。体を壊して大学は中退したが繊維の小売りを始め、妻や子にも恵まれた。仕事の一線を退き、鉛筆画に本格的に打ち込んだ。

 「やはり思い出すのは子ども時分の楽しかったころ」。ありし日の広島を描き続けたのは、家族や幼なじみが生きていた証しを残すためであり、「私なりの供養」でもあった。

 スズラン灯が続き夜も馬跳びをした本通り商店街、真っ黒になるまで泳いだ元安川、映画の上映会もあった県産業奨励館(現原爆ドーム)、夏はラジオ体操の会場となり秋の招魂祭のバイク競走に歓声を上げた西練兵場(現・旧市民球場一帯)…。

 「あの日」見た光景は「地獄絵のようで」と直接に描いたのは2枚だけ。今も進んで描く気にはなれない。

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 平和記念公園一帯を歩く「ヒロシマ・フィールドワーク実行委」の求めで4年前に証言した。それがきっかけとなり、証言を添えて画集の発行となった。

 実行委代表で高校教諭の中川幹朗さん(52)は「森冨さんの緻密な絵を手に歩いてほしい。亡くなった人たちの息遣いがきっと感じられる」と呼び掛ける。500部作成した。中川さんTel082(255)1923。

(2011年7月30日朝刊掲載)

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