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連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 法被に残る商いの活気

■記者 藤村潤平

旧大正屋呉服店 建物 爆心地の証人

 現在は平和記念公園(広島市中区)のレストハウスとして店舗跡が活用される旧大正屋呉服店。そこで使われた法被や関係書類を、元従業員の遺族が保管している。呉服店があった繁華街は原爆で壊滅しただけに、戦前のにぎわいの記憶を今につなぐ貴重な資料だ。

 ゆかりの資料は、従業員が着ていた法被2着と、店の服務規定が記された紙、着物を包む畳(たとう)紙。物資不足による繊維統制令で1943年末に閉店するまで営業総務部長を務めた故若狭金治郎さんが残していた。法被と服務規定の紙は若狭さんのもので、畳紙は若狭さんが戦後創業した呉服店の顧客から譲り受けた。

 法被は藍染めの綿製で着丈約85センチ。襟文字に「大正屋呉服店」の屋号を染め抜き、背中に「大正」の文字をデザインした商標を赤で描く。服務規定には、職位や月給、旅費や賞罰が細かく書かれており、手広く商売していた店の様子がうかがえる。店名が記された畳紙には担当した従業員の名前も見える。

 呉服店があった旧中島本町は市内有数の繁華街だった。現在は平和記念公園の敷地内に当たる一帯だ。辺りには映画館やカフェ、旅館などが軒を連ねた。とりわけ呉服店はモダンな建物で買い物の客の目を引いた。

 10代のころ母親と店に通った藤木チヱ子さん(95)=安佐北区=は往時のにぎわいが忘れられない。「法被は大売り出しの時、角帯を締めた店のえらいさんが着ていた」と回想。大正屋で購入した留め袖は被爆翌年の46年1月の婚礼で着た。原爆で亡くなった母の形見でもある。

 若狭さんは戦時下に仕入れが厳しくなる様子を戦後に回想した備忘録も残した。呉服店を継ぐ孫の利康さん(55)は「祖父から大正屋のことを聞いたことはないが、古いお客さんから伝え聞いた。法被や書類はその証しで誇らしい」と重みをかみしめる。

 市公文書館の池本公二主幹は「原爆で焼失した一帯の商店の資料はほとんど残っていない。中でも被爆建物として店舗跡が残る大正屋の資料はより価値が高い」と話している。

平和記念公園のレストハウス
 鉄筋3階建て地下1階のモダンな建物は昭和初期の1929年に、大正屋呉服店の店舗として広島有数の繁華街だった旧中島本町に建設。43年の閉店後は国策の配給統制組合が買い上げ「燃料会館」となった。頑丈な構造で爆心地から170メートルながら被爆に耐えた。戦後は市が買収し、東部復興事務所として利用。82年の改修でレストハウスとなった。

(2011年8月1日朝刊掲載)

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