×

連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 「彫刻師に」 夢奪われた 

■記者 野田華奈子

宮島の田中さん 6日、初の証言へ

 世界遺産の島・宮島町(廿日市市)で土産物店を営む田中勝さん(80)は、66年前の原爆で視力のほとんどを失った。祖父、父の跡を継ぐ伝統工芸宮島彫の彫刻師の道を断たれた。無念の思いを胸に秘めてきたが、福島第1原発事故を受け「悲劇を繰り返してはいけない」と6日、初めて人前で被爆体験を語ることを決意した。

 田中さんは、明治時代から続く宮島の土産物店に長男として生まれた。父と祖父は自ら彫った大鳥居をあしらった木製の円盆やシカの置物を売っていた。

 祖父は1914年の東京大正博覧会で1等になった名人。父も戦後に島を訪れた昭和天皇への天覧彫刻を手掛けた腕利きだった。大好きな汽車の運転士へのあこがれもあったが、「跡を継がんといけん」との思いは強かった。

    ◇

 原爆が落ちたあの日。広陵中1年だった田中さんは、建物疎開作業で比治山橋の西詰め(中区)にいた。集合直後に閃光(せんこう)を浴び、近くの土塀にたたきつけられ、意識を失った。気が付くと服に火がつき、顔や左半身に大やけどを負っていた。目がかすみ、右目はほとんど見えなくなった。

 偶然通りかかったトラックに助けられ、海田町の寺に運ばれた。負傷者で埋まった本堂や廊下は、苦痛で泣き叫ぶ人や家族の名を呼び続ける声が響いた。

    ◇

 ほどなく両親に連れられ宮島に戻ったが、半年間は寝たきりだった。歩けるようになっても顔や手足にケロイドが生々しく残った。

 当時、宮島には英連邦軍の保養施設があり、顔のケロイドを見た兵隊が気の毒がり、チョコレートやたばこをくれた。「サンキュー」と言ったが、「原爆でこんな体になった」と怒りに震えた。ケロイドを気にして20代後半までは店頭に立てなかった。

 職人への道や進学の希望も奪われ失意の田中さんに父は言った。「多くの人が原爆で亡くなったのに、生かしてもらった命をありがたく思いなさい」。その言葉で運命を受け入れることができるようになった。30歳を過ぎて結婚。両親や妻と店を切り盛りしてきた。

 被爆体験を語ろうと決意したのは福島第1原発事故の衝撃だった。「放射能がどれだけ人体に悪影響を及ぼすかは体験者でないと分からない」。亡き父に教えられた生きることへの感謝とともに、若い世代に伝えたい。

 田中さんが語る「被爆者証言のつどい」は6日午前10時、広島市中区八丁堀の広島YMCAである。

(2011年8月2日朝刊掲載)

年別アーカイブ