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連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 「天神さん」誇りだった

■記者 藤村潤平

元住民 ご神体無事 再建願う

 原爆で壊滅し、戦後は大部分が平和記念公園(広島市中区)になった旧天神町。町名の由来となった天満宮のご神体は被爆を免れ、中区の空鞘稲生(そらさやいなお)神社でひっそりとまつられている。被爆66年で初めて無事を知った元住民が神社を訪れ、天満宮の再建を願った。

 ご神体は菅原道真公の木像。対面した中区の渡辺雅(ただし)さん(84)と広島県府中町の山崎寛治さん(83)は、こうべを深々と垂れた。静寂の中、せみ時雨が響いた。「不思議な縁ですなあ。再びお参りできるとは」。渡辺さんがつぶやくと、山崎さんもうなずいた。

 「天神さん」の愛称で親しまれた天満宮は爆心地から約600メートル。石造のしめ柱やこま犬を残し、焼き尽くされた。ご神体だけは疎開させて無事だった。疎開先など当時の状況はよく分かっていない。戦後に神社の再建はかなわず、宮司が神社近くに再建した自宅で保管していた。

 その後、宮司と妻が亡くなり、1988年からは親戚で空鞘稲生神社の内田嘉彰宮司(61)が受け継いでいた。

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 戦前の住民にとって「天神さん」は町の誇りだった。かいわいで毎年6月に開かれる夏祭りでは、町を南北に貫く通りに露店が軒を数百メートル連ねた。山崎さんは「広島の夏を告げる『とうかさん』に匹敵するにぎわいだった」と回想する。ご神体の学問の神様にならい、小学生の書道展も毎年開かれていた。

 その夏祭りや書道展も戦時で途絶え、原爆は町と暮らしを跡形もなく消し去った。渡辺さんは一家6人を、山崎さんは母と親戚の計11人を亡くし、ともに一人きりとなった。戦後には平和記念公園や平和大通りができ、65年の町名変更で「天神町」の名前も地図から消滅した。

 天満宮はいまも「天満神社」として宗教法人の登記上は存続するが、生き残った氏子は戦後散り散りとなった。ご神体を預かる内田宮司が94年、しめ柱とこま犬が残る平和大通り南側に小さな仮殿を建て、再建の機会を模索している。

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 天満宮は毛利輝元が広島城を築いた約400年前、本拠地だった吉田(安芸高田市)から移したとされる。ご神体を写真鑑定した広島大大学院文学研究科の三浦正幸教授(文化財学)は「神像としては極めて優れた彫りであることや装束の誤りから有職(ゆうそく)故実の乱れた16世紀の京都の作」とみる。

 毛利時代から続くご神体との評価に対し、渡辺さんは「原爆で古里のゆかりの物も人の命もなくなってしまった。記憶も消えようとしている。当時の街の営みや暮らしを語り継ぎ、天神さんの再建を後押しできれば」と話している。

(2011年8月3日朝刊掲載)

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