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連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 公募体験記

■記者 田中美千子

感謝 「与えられた命」に  広島市の松井一実市長が6日、平和記念式典で読み上げる平和宣言には公募した被爆者の体験記が初めて引用される。その一人に選ばれた深町陸夫さん(79)=奈良市=は記憶の風化に危機感を抱き、パソコンに向かった。「ヒロシマは原点を語り続けなあかん」。半世紀前、仕事を探して関西へ居を移し、すっかり関西弁が板についた今も、自ら描いた絵を手に地元で証言活動を続ける。

 深町さんは大阪市此花区のバルブ製造会社の会長を務める。体験記の公募は新聞記事で知ったという。自宅で机に向かうと記憶があふれ出し、1時間余りでA4用紙4枚分を書き上げた。

 冒頭で原爆が落とされる前日8月5日の思い出をつづった。当時13歳。広島市立造船工業学校(現広島市商高)2年生だった。学徒動員先の軍事工場が久々に休みをくれたのがうれしくて、同級生2人と牛田町(東区)の自宅そばの川で遊んだという。

 そんな日常が翌朝、一瞬にして奪われた。工場に向かうため家を出ようとした瞬間、閃光(せんこう)に目がくらみ、爆風に吹き飛ばされた。幸い自宅にいた母と3人の幼いきょうだいは助かったが、旧制広島一中(現国泰寺高)の配属将校だった父は家を出たまま、連絡が途絶えた。

    ◇

 7日から父を捜し歩き、川に浮いた遺体を1体ずつ調べたが、見つけられなかった。その年の12月、知人を頼って山口県秋穂町(現山口市)に移り住んだころから、自らも死線をさまよう。食欲がうせ、髪は抜け落ちた。1年3カ月、床に伏せた。

 「でも、私はなぜか生かされた」。あの時、川で一緒に泳いだ友は2人とも亡くなったという。弟2人も肝臓などを患い、20歳と42歳で逝った。だから「与えられた命」に感謝し、懸命に働いた。造船会社や化学工場で働き、設計を学んだ。52歳でいまの会社の社長に上り詰めた。

    ◇

 約10年前、地元の小学校に頼まれたのを機に被爆証言を始める。「残された私が語り継がんと」と深町さん。子どもたちが自らに引きつけ想像しやすいようにと、水彩画も描いた。閃光を浴びた瞬間、燃えさかる家々、川に浮いた無数の遺体…。児童は目を見張り耳を傾けてくれる。

 「市民を標的にするような兵器をいまだ、多くの国が持っとる。絶対あっちゃならんと、ヒロシマから訴え続けてほしい」。深町さんは力を込める。

 平和宣言には書き出しにつづった原爆投下前日の記憶が引用される。広島の式典会場に駆け付け、自分の耳で聞くつもりだ。「人間、できんことはない。私たちのように生き抜いてください」。東日本大震災の被災地にも、復興した広島の姿を見てほしい。そう願う。

(2011年8月4日朝刊掲載)

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