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連載・特集

<8・6式典参列の都道府県遺族代表> 平和の尊さ伝えねば

 広島市中区の平和記念公園で6日営まれる原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)には、各都道府県から遺族代表が参列する。被爆から66年のことしは、出席しない5県を除く21歳から82歳までの42人が犠牲者をしのび、式典に臨む。胸に刻まれている悲しみや核兵器廃絶への願いを聞いた。

大山可奈子(40)=北海道
 母入江敏江、10年11月11日、79歳、心筋梗塞
 母は14歳の時に被爆した。耳の後ろに何かの破片が当たり、やけどの痕が残っていた。多くを語りたがらなかったのは、川に飛び込む人など当時見た光景の衝撃が大きかったからだと思う。被爆2世としてきちんとヒロシマと向き合う使命感を今、感じている。

藤田和矩(65)=青森
 母俊子、46年9月3日、22歳、心不全
 私を妊娠していた母は爆心地から1.5キロの白島九軒町の自宅で父を見送る時に被爆した。私が生まれて約5カ月後に亡くなった。母は菊が好きだったと祖父母に聞いたが、私には記憶もない。地図と菊を持って白島九軒町を歩き、母の足跡をたどりたい。

高橋洋子(59)=岩手
 父藤井虎雄、02年12月6日、75歳、筋萎縮性側索硬化症
 暁部隊だった父は爆心地から約2キロの比治山で被爆した。被爆体験は話さないが、父に水を求めた同年代の女学生が水を飲むと目の前で亡くなっていったと聞いた。当時の様子は「地獄」だったと。戦後、核について「人の力が及ばないもの」と言い続けていた。

木村由紀夫(66)=宮城
 義父山県貞臣、45年8月9日、42歳、被爆死
 内科医だった義父は往診に行く途中の堀川町付近で被爆した。3日後の朝、義母が緑井村の医院に運び込まれた義父を見つけた。だが、夕方に「無念でならない」と言い残して亡くなった。8歳だった妻は小さな薬瓶に入った遺骨を見て涙に暮れたそうだ。

藤豊子(64)=秋田
 父太田久吉、85年6月19日、68歳、急性肺炎
 南満州鉄道に勤めていた父は、祖父の葬儀で母、兄と秋田市に帰郷。母の実家がある広島市を訪れ、一人で外出中に被爆した。背中に大やけどを負い、数日後に因島の病院で母に発見された。家族にはあまり体験を話さなかったが、晩年まで語り部の活動を続けた。

橋本敬子(78)=山形
 夫計男、11年1月27日、84歳、急性心不全
 通信兵だった夫は比治山の防空壕(ごう)で被爆。救護活動をした。42歳で舌の血管の腫瘍を患った際、初めて被爆者だと打ち明けられた。十数年後に広島を旅した時、「苦しむ人にあげる水もなかった」と悔やんでいた。2人で歩いた風景を確かめ冥福を祈りたい。

酒井浩三(54)=福島
 父佑三、10年12月24日、85歳、急性心筋梗塞
 千田町の広島工業専門学校(現広島大工学部)で授業中に被爆したと聞いている。原爆の話はしたがらなかった。福島第1原発事故で目に見えない放射線の恐怖を感じた。父も当時は情報がなく、つらい思いをしたのだろう。広島の被爆者と気持ちを共有したい。

寺田道子(63)=茨城
 祖母福馬セキ、66年2月12日、68歳、胃がん
 祖母は牛田町の自宅で被爆したと聞いている。祖母は、私の誕生をとても喜び「お宝さん」と呼んでいたそうだ。多くを語らなかったのは本当につらい体験をしたからだろう。福島第1原発事故で核兵器廃絶への思いが一層強まった。祖母の遺影を持って参列したい。

高橋久子(78)=栃木
 父岩佐節造、45年8月6日、51歳、被爆死
 紙屋町の芸備銀行本店で勤務中だった父。捜しに行った兄が、焼け残った印鑑とわずかに残った骨を持ち帰った。子煩悩な父で本当に仲の良い家族だった。私も学徒動員中に被爆したが、父との思い出を胸に何とか生きることができた。感謝の気持ちを伝えたい。

大山昭代(64)=群馬
 父稲垣正太郎、10年6月27日、86歳、急性膵炎
 軍人だった父は比治山本町で被爆。ガラス片が刺さった背中の傷痕をよく見せて、原爆被害の悲惨さを家族に話していた。終戦後、古里の群馬に戻り、被爆証言の活動もしていた。原爆を知らない人が多い中、風化させてはいけないとの思いだったのだろう。

原明範(69)=埼玉
 父由郎、86年5月5日、74歳、膵臓がん
 原爆投下時、両親は自宅に、兄と私は近くの理髪店にいた。父は思い出したくないのか、被爆当時のことを話さなかった。私は今年5月から埼玉県原爆被害者協議会の事務局長をしている。生き残った者の責務として、戦争の悲惨さを伝えていきたい。

吉井潤子(72)=千葉
 父箕浦史朗、45年8月6日、38歳、被爆死
 父は勤務先だった千田町の工場で被爆。母が遺体を確認し、白島九軒町の自宅付近の寺に納骨した。6歳だった私も自宅で被爆し、顔にガラスの傷痕が今も残る。後遺症に苦しんだ母も含め原爆で家族5人を失った。あんな地獄が繰り返されないよう願っている。

畑谷由江(73)=東京
 兄武、45年8月6日、13歳、被爆死
 兄は通っていた広島一中(現国泰寺高)で被爆した。母が校舎の焼け跡を捜し歩いていると、水筒を持ったままの遺体を見つけた。母が兄に持たせた水筒だった。私も高齢になり、広島に行くことも少なくなるだろう。兄の母校に足を運んで祈りたい。

増本昭夫(78)=神奈川
 母和江、45年8月6日、40歳、被爆死
 母は鉄砲町の自宅で被爆した。自宅は跡形もなくなった。父が被爆から数日後にがれきにうずもれた遺体を見つけた。骨つぼさえなく、近くに転がっていた缶に骨を詰めた。母の死を知った私に対し、「泣くな」と言った父の悲痛な顔が忘れられない。

金田宏子(67)=新潟
 母長谷川スエ、06年4月29日、91歳、心不全
 旧日本軍の輸送船の乗員だった父の転勤で、家族は新潟県から舟入川口町に引っ越した。1歳の私は両親と自宅で被爆。母は夏が近づくたびに当時の惨状を泣きながら語った。式典には娘や孫も初めて参列する。原爆の恐ろしさを少しでも知って感じてほしい。

飯田国彦(69)=富山
 母稔子、45年9月7日、25歳、被爆死
 母は加古町の実家で当時3歳の私、4歳の姉と一緒に被爆。爆風で3人とも2階から外に投げ出されて家の下敷きになったが、助け出された。直後にみんな唇が青くなり、髪が全部抜けた。広島は危ないと、宮島から新庄村に逃げた。そこで母と姉は息絶えた。

湯元洋子(66)=石川
 母西川ミサ子、45年9月12日、23歳、被爆死
 母は薬研堀の自宅で被爆した。東野まで逃げたが、まもなく亡くなった。東日本大震災の被災地には、被爆後の広島と同じような状況になったところもあるだろう。被災した方々に、ふるさと広島の復興を伝え、励ましのメッセージを届ける思いで参列したい。

遠山睦子(69)=山梨
 母故選妙順、08年2月28日、98歳、循環器不全
 母は草津本町の自宅で被爆した。長男の兄が被爆死し、つらかったのだろう。被爆体験を語ることはほとんどなかった。私は約10年前から地元の小中学校などで原爆の証言活動をしている。福島第1原発事故を受け、核の恐ろしさを伝える意義を一層感じる。

藤森俊希(67)=長野
 姉敏子、45年8月6日、13歳、被爆死
 姉は市立第一高等女学校(現舟入高)の1年生で、爆心地の近くで建物疎開中だった。母は1歳の私を背負い、焼け野原を歩いて姉を捜したが、姉の布かばんしか見つからなかった。8月6日には毎年、母が涙を流しながら当時のことを話していた。

南温平(81)=岐阜
 妻弘美子、11年1月23日、74歳、消化管間葉系腫瘍
 妻は母、弟と的場町の病院へ行く途中で被爆した。爆風に吹き飛ばされたが無事だったという。約5年前に初めて妻と原爆資料館へ行った。「被爆体験は思い出すのも嫌」と多くを話さなかった。妻の遺影を持って式典に参列し、最後の別れをしようと思う。

藤吉小百合(81)=静岡
 義父時登、62年2月16日、71歳、喉頭がん
 義父は南竹屋町で被爆したと聞く。夫と知り合ったころは広島原爆病院に入退院を繰り返していて、結婚式も出席はかなわなかった。私も被爆者。当時、広島のどの家庭でも原爆が影を落としていた。子や孫があんな思いをすることがないよう祈りたい。

柴山理恵(38)=愛知
 祖母恩田喜多恵、67年10月13日、52歳、心筋梗塞
 祖母は、母とともに爆心地から約1.2キロの加古町で被爆した。その母が事務局次長を務める被爆者団体の事務を手伝っている。自分が被爆2世だと再認識し、原爆は現在進行形で終わりがないことを実感している。式典は母と小学3年生の娘と参列する。

森岡文孝(66)=三重
 父柳正則、45年8月13日、38歳、被爆死
 父は勤めていた竹屋町の配給所で被爆し、全身にやけどを負った。私や母がいた楽々園の別荘にたどり着き、亡くなった。40年前に亡くなった母からは、真面目で家族思いだったと聞いた。式典では写真でしか知らない父への感謝をかみしめたい。

雨森博志(41)=滋賀
 母マサ、04年8月12日、63歳、脳梗塞
 母は沼田町の実家にいたという。互いに原爆の話をしたことはない。私が被爆2世だと初めて意識したのは母が亡くなる約1年前に被爆者健康手帳を申請した時だった。福島第1原発事故では恐怖を感じ、被爆体験を語ることがなかった母の思いに触れた気がした。

川口きみ子(72)=京都
 夫元治、10年12月14日、75歳、肝臓がん
 夫は市内にいて両親と姉を失った。10歳の夫にはつらすぎたのだと思う。当時の話をすることはほとんどなく、結婚後に「被爆していて病気が出るかもしれない」と明かした。詳しくは聞かなかった。式典参加は初めて。両親の元へいった夫の冥福を祈りたい。

宗田光浩(67)=大阪
 父九一、45年8月6日、34歳、被爆死
 父は土橋町付近で建物疎開中に被爆した。遺骨は見つからなかった。被爆した母が数年後、寺町の寺で父の名前と命日の記録を見つけたと聞いた。その母も亡くなって半世紀がたつ。父や当時のことを知りたい気持ちは増している。核のない世界を祈りたい。

加藤伍(77)=兵庫
 母シエ、45年9月3日、54歳、被爆死
 母は爆心地から約500メートルの河原町の自宅で被爆した。亀山に疎開していた小学5年の私は母を捜しに市内に入った。母には廿日市市の親戚宅で会えた。横になりながら「ここがよう分かったのう」と喜んだ母の顔が忘れられない。4年ぶりに墓参りに行く。

伴資英(62)=奈良
 父資信、10年12月7日、88歳、肺炎
 父は爆心地から約2キロの広島駅で列車を待っている時に被爆した。髪が抜けたり、ケロイドが残ったりしたが、「これも人間の一つの生き方」と強く生きていた。父の死をきっかけに、父の人生や自分自身のことを振り返ろうと式典への参加を決めた。

上田芳信(59)=和歌山
 母繁子、10年6月19日、83歳、老衰
 母は20歳の時に舟入南町の自宅で被爆。遺体の運搬や埋葬を手伝ったそうで、当時の光景は「忘れたい」と話していた。私や姉が差別されるのを恐れてなのか、人前で体験は話さなかった。小学3年生の時に原爆資料館で見た被爆者の人形が忘れられない。

青山喜一(61)=島根
 父一郎、08年5月19日、83歳、急性心不全
 海軍に所属していた父は爆心地から約1.5キロの観音本町の軍事工場で被爆した。頭に傷を負い、半年ほど頭痛に悩まされたという。寡黙で私や孫が質問した時だけ言葉少なに話した。松江で催される慰霊祭には一人で参加し、鎮魂の祈りをささげていたようだ。

山本三恵子(57)=岡山
 父日下楠二、10年10月7日、85歳、膵臓(すいぞう)がん
 陸軍の衛生兵だった父は爆心地から約1.5キロの勤務先の病院で被爆した。爆風で飛んできたガラス片による傷が腕や脚に残っていた。「助けてもらった命」と周囲への感謝を忘れない人だった。父が体験をつづった手記を持って式典に臨み、冥福を祈りたい。

大石雅子(78)=広島
 母西元カメヨ、45年8月6日、38歳、被爆死
 母は家族で身を寄せていた西白島町の叔母宅で、午後の汽車で疎開するための荷造りをしていた。倒れた家の下で手を合わせたまま焼かれていた。12歳だった私はそれから弟2人を必死で育てた。若くして亡くなった母に「倍を生きました」と伝えたい。

田中寛一(65)=山口
 母雪、90年11月27日、84歳、膵臓がん
 私を身ごもっていた母は、己斐町の自宅で姉、兄と一緒に被爆した。戻らぬ父を捜し歩き、愛用の腕時計だけが見つかった。姉以外には当時のことを話さなかった。つらい思いをさせたくなくて母にこれまで聞けなかった。参列を機に母の思いを姉に尋ねたい。

高橋博(82)=徳島
 義母宮野重子、94年9月23日、87歳、心不全
 義母は八丁堀の自宅で被爆し、爆風で吹き飛ばされた。意識が戻った後は生後4日の娘を捜したという。「崩れかけた家から夫が息絶えた娘を抱え出てきた姿が忘れられない」と話していた。晩年も「亡くなった子のことを考えると原爆は許せない」と憤っていた。

大前宏一(64)=香川
 父博、09年12月17日、82歳、肺炎
 父は、学徒動員で呉市の工場にいたが、6日午後、広島市内に入り被爆。遺体の収容に従事した。「川に浮かぶ遺体の数はすさまじかった」と話していた。故郷の香川に戻ってからは血を吐くなど後遺症が続いた。長年にわたり人々を苦しめる核兵器はいらない。

宮領トキ子(70)=愛媛
 叔母上田シヲヱ、09年6月2日、92歳、心不全
 呉市の青果市場で働いていた叔母は、原爆投下から3日後、広島市内に入り被爆した。当時の話を聞く機会は少なかったが、亡くなる前に悲しそうな顔で言った言葉が忘れられない。「原爆で多くの人が亡くなった。私はここまで生きさせてもらえた」

西田征二郎(71)=高知
 父加寿人、45年8月20日、45歳、被爆死
 父は幟町の友人宅で被爆した。建物からはい出て、比治山方面に逃れたと聞いている。ガラスが刺さったのか、着ていたシャツは穴だらけでぼろぼろだった。式典には、父の子として生まれたことや育ててくれたことへの感謝をあらためて胸に刻み、臨みたい。

城戸真子(82)=福岡
 母野村ヒサヨ、94年7月22日、95歳、脳梗塞
 主婦だった母は幟町で被爆した。いとこの家で引っ越しを手伝っている最中だった。がれきの中から助け出されたが、周りは焼け野原で「地獄を見た気がした」と話していた。ことしは福島第1原発事故があった。核の恐ろしさについてあらためて考えたい。

馬場達也(21)=長崎
 祖母ミキ、09年6月5日、86歳、急性心不全
 看護師だった祖母は岩国市の海軍病院で被爆者を看護したと父から聞いている。私は長崎県で平和教育を受け、原爆の被害について学んだ。戦争の体験はない世代だが、参列は平和について考える良い機会になると思い出席を決めた。祖母の遺影を持って行く。

柴山千寿江(59)=熊本
 父正野崎勲、06年2月12日、81歳、心不全
 広島高等師範学校(現広島大)の学生だった父は帰省先の大分から原爆投下翌日、広島に戻った。母の病気で出発が1日遅れ命拾いした。地獄絵だったとしか語らなかった。私は7歳で甲状腺を部分摘出し今も治療が続く。「俺のせいか」との言葉が忘れられない。

池田義明(67)=大分
 母マツミ、00年2月14日、79歳、多発性がん
 金輪島にあった父の造船所に被爆者がたくさん運ばれてきた。母は、坂町の自宅から何日も通っては介護した。原爆資料館を訪ねた時に「もっとひどかったんよ」と話していた。父は戦後まもなく亡くなり、母は小さい息子3人を抱え、苦労の多い人生を送った。

萩原徹(56)=鹿児島
 父実行、10年10月6日、88歳、出血性急性胃炎
 被爆体験をほとんど語らなかった。宇品の高射砲部隊で被爆した後、救助活動をしたと聞いている。40代で狭心症を患い、78歳で大手術を受けた。心臓に爆弾を抱えながら生きた。照れ性で子煩悩な父だった。小1の時、河原で一緒に見た蛍の群舞の記憶が鮮烈だ。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、当時の年齢、死因、遺族のひとこと。敬称略。

(2011年8月5日朝刊掲載)

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