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連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 父の手記 重なる3・11

■記者 胡子洋

備前・山本さん 放射線の恐怖 継承

 東日本大震災に伴う福島第1原発事故が起きて以来、備前市の主婦山本三恵子さん(57)は、昨年10月に85歳で亡くなった父日下楠二さんを思い出さない日はない。死の間際まで放射線の恐怖を口にしていた被爆者の父。「生きてたら原発事故をどう思ったか」。父が残した手記を携え、6日に広島市中区である平和記念式典に初めて参列する。

 膵臓(すいぞう)がんに侵された父は昨年5月から岡山市北区の病院に入退院を繰り返した。既に「余命6カ月」との宣告を受けていた。体を横たえたベッドで語った。「放射能は何十年も後に影響が出る」。被爆直後に食べた野菜などについても話していた。

 原爆が落とされた時、広島第一陸軍病院(中区基町)で衛生兵として働いていた。建物の下敷きになり大けがを負ったが一命は取り留めた。

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 戦後、実家の瀬戸内市に戻り建設会社や農協に勤めた。木工や川柳、釣り、絵画など多彩な趣味の持ち主だった。「生かされたことに感謝し、一日を大切に過ごしていた」と山本さんは振り返る。

 父から原爆のことはよく聞いたが、話以上に脳裏に焼き付いた体験がある。一人っ子だった山本さんは幼いころ、父と母智恵子さん(80)で川の字になって寝ていた。ある晩、布団の中で父の左腕にえぐれた痕を見つけた。何カ所もあった。

 父は「ガラス片がたくさん刺さり、取り除くのに麻酔もなく、生身にこたえた」と漏らした。父を傷つけた原爆が憎かった。

 山本さんは父の死後、遺品を整理していて手記を見つけた。同じ衛生兵だった仲間と1988年に記した。父が手記を寄せたことは知っていたが、じっくり読んだことはなかった。読み返すと、被爆時の父の姿が浮かんだ。

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 一面の火の海の中、旧知の兵隊に背負われて逃げ、血まみれの体で川に飛び込んだ。直後に黒い雨に打たれた。川を流れてきたカボチャを食べ、下痢が続いたとも記してあった。

 原発事故後、山本さんは度々手記を開く。放射線の脅威にさらされる被災地に父の姿が重なる。「お父さん、大変なことになったよ」。手記にある若い父の写真にそう語り掛ける。

 事故から2カ月がたったころ、同居する次女(26)が突然、「おじいちゃんの手記どこ」と聞いてきた。次女も原発事故で「あの日」のことが知りたくなったという。父の手記をじっと読む次女の姿を見て原爆の日、遺族代表として広島に行こうと決めた。

 「広島で父のメッセージの一片でも感じられれば」。山本さんは6日、式典に参列後、次女と遺影を携え、父の足跡をたどるつもりだ。

(2011年8月5日朝刊掲載)

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