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連載・特集

ヒバクと向き合う 日本母親大会からの報告 <上> つながる体験

核の問題「人ごとでない」

 全国の約8500人が参加し、7月末に広島市内で開かれた「日本母親大会」。福島第1原発事故を受け、放射能汚染の問題にあらためて向き合った母親たちは、今、何におびえ、何を求めているのか。31日にあった二つのシンポジウムから母親たちの声を紹介する。


 「先日、福島の若い女性から『将来出産できますか』と聞かれ、逃げ出したい気分になりました」。広島で被爆し、今は東京都町田市で助産師を務める神戸美和子さん(73)が真剣な表情で切り出した。

50年後にがん

 放射線が体にどんな影響をもたらすのか分からない。「私は被爆から50年後にがんになった。でも、そんな話を若い母親たちにできるでしょうか」

 核兵器廃絶をテーマに広島市中区であったシンポジウム。参加した約100人の視線が、会場で立ち上がり、被爆体験を語り始めた神戸さんに集まる。

 7歳の時、爆心地から約4キロの東雲町(現南区)で被爆した。岡山で過ごした中学時代、広島から来たと告げると「ピカちゃん」と呼ばれ、いじめられた。二度とヒロシマについて語るまいと決意し、すべてを封印してきた。

 「あの原爆で亡くなった人の分だけ、新たな命を生み出す手助けをしたかった」。上京して助産師になり、4人の子どもを育て上げた。だが、出身を聞かれると「岡山です」とごまかしてきた。

 福島から各地に避難した子どもたちが今、自分と同じ目に遭っていると聞く。ヒロシマとフクシマが重なり合う。もう黙ってはいられない―。

 シンポのパネリストは広島の被爆者や新聞記者、活動家ら4人。それぞれが、核実験や原発事故の被害者、ウラン鉱山の周辺住民ら、核開発が生んだ世界のヒバクシャについて語った。


情報どう入手

 神戸さんだけでなく、会場にいた女性たちが相次いで発言する。

 「放射能汚染は不安だけど、情報の入手の方法が分からない」

 「放射線について知らないことの怖さを感じた」

 「原発は廃止してほしい」

 「核兵器の問題は遠く感じていたけど、実は人ごとではないと、今日の話を聞いてはっとした」

 原発はむろん核兵器廃絶について、これまではさほど深く考えていなかった参加者も少なくなかった。事故を機に、自分や子どもに関わる切実な問題として捉え始めていた。

 半世紀前、米国の水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)した衝撃から生まれた母親大会。広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師(41)は「子どもを抱えた母親たちが立ち上がった原点を思い起こしたい」と初めて参加した。

 1歳の息子の育児休暇中に震災が起きた。東京にいたが息子が被曝しないよう、7月に仕事に復帰するまで大阪の実家に避難した。何シーベルトなら大丈夫というのではなく、子どもへのあらゆる危険を避けようと直感的に動くのが母親―。わが子を抱き、そう実感している。  「私たちには、命を守る社会をつくる役割がある。それにはまずは知り、学ぶことから始まる」。母親たちの力に期待を寄せた。(森田裕美)

日本母親大会
 1954年の米国によるビキニ環礁での水爆実験を受け、運動家の平塚らいてうたちが世界に向け発した「原水爆禁止のための訴え」を契機に、母親たちが始めた。55年6月に東京で第1回大会を開催。年1回、国内各地で開き、反核や保育の充実、女性の地位向上の議論を深め、政策要望などを続けてきた。57回の今回初めて被爆地広島で開いた。

(2011年8月6日朝刊掲載)

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