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連載・特集

作家・青来有一さん 長崎からの問い掛け

黙とうする人々 広島の青い空 つながり感じた

 作家の青来有一さん(52)は、長崎に横たわる被爆や殉教という歴史を背負って生きる人々の息遣いを詩情豊かに描く。現在と過去がつながる作品は、芥川賞や谷崎潤一郎賞などを受賞した。本名は中村明俊さん。被爆2世の長崎市職員でもあり、昨年11月からは原爆資料館長を務める。「原爆」をなぜ書くのか。人間と核との問題について見直しを迫る「3月11日」以降をどう捉えているのか。作家として語った考えを伝える。(西本雅実)

被爆地に生まれて
土地の記憶 想像力を喚起

 原爆をテーマにした小説を書くのは、被爆2世だからではありません。長崎という土地の記憶に想像力をかき立てられるからです。もっとも、原爆は家族や地域に関わる話として身近にありました。

 生まれたのは長崎市で両親は被爆者です。肺がんで2年前に逝った父はそれほど話さなかったが、母は髪が抜けたり歯ぐきから血が出たりしたと原爆の話をした。表には出していませんが、父方の祖父は二重被爆です。(三菱重工の)長崎造船所で働き、応援のため(江波造船所が開所間もない)広島へ行って原爆に遭い、戻ってまた遭ったそうです。

 県職員だった父の転勤で五島列島に住んで長崎に戻り、小学校は被爆で多くの子どもが亡くなった城山に入りました。毎月9日には学校の平和祈念式典がある。嘉代子さんの碑が建立されたのは3年生の時で、お母さんの話を校庭に並んで聞いたのを覚えています。

 城山小は爆心地から約500メートルに当たり、児童約1400人や学徒報国隊員105人が死去。動員中に被爆した当時15歳の林嘉代子さんを悼み、母津恵さんが1949年に植えた桜は「嘉代子桜」と呼ばれる。学校の式典は51年に始まり今も続く。桜の苗は市民団体が3年前から全国に届け、広島県北広島町の豊平南小でも育てられている
 当時の住まいは爆心地松山町の近くです。銭湯に行くとケロイドが残る人がいて、わっと思った。近くの浦上川は夏の遊び場でしたが、ここで実はたくさんの人が亡くなったんだよとの話もよく聞いた。

 自分が生まれるはるか前の話ながら、8月9日に原爆が落ち、この辺りは原子野になったことが、自分にとっての記憶となった。カトリックの歴史に触れたのも城山小です。ある日、一緒に遊んでいた男女が洗礼名を持っていると得意げに言った。何で別の名前があるんだと衝撃を受けた。長崎に生まれた意味を感じて育ったといえるし、子どものころの経験を引きずっているところがあります。

「原爆」を表す
言葉までに時間 今も屈折

 メディアは「怒りの広島」「祈りの長崎」などと50年代から呼ぶ。米雑誌タイムは1962年に「二都の物語」と題して「広島は過去にとりつかれ、長崎は寛容の精神で現在に生きている」とまで評した。被爆地からの語りに違いはあるのだろうか
 長崎の体験を、自身も被爆した林京子さん(1975年の「祭りの場」で芥川賞)や、竹山広さん(2002年に斎藤茂吉短歌文学賞。10年死去)が表現にするまでには長い時間がかかった。広島では、被爆間もなくから原民喜さんや大田洋子さんらが幅広く書いた。そういうところは長崎と広島では違います。

 長崎は、原爆投下は何だったんだ、どう受けとめ、生きていけばいいのかという問いを抱え込んだ方々が結構多い。言葉にするのに時間はかかり、今も屈折していると思う。表現の分野では広島より陰影に富んでいると言えるかもしれません。

 「祈りの長崎」のイメージはカトリックの土地でもある上に、永井隆さんの影響が大きい。永井さんは放射線医学の専門家だったので、被爆の様子の記述は科学的です。一方でカトリック信者でしたから、原爆の受容の仕方について神学的な見方をされた。よく知られる「長崎の鐘」にも表されています。

 松江市出身の永井隆(1908~51年)は長崎医科大に進み、浦上への下宿を機に受洗。助教授の時に被爆し救護活動に尽力。病床から「長崎の鐘」などを著し、初の長崎市名誉市民となった
 永井さんが(1945年11月に)浦上の合同葬で読んだ「燃やさるべき潔(きよ)き羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか」という弔辞は、「浦上燔祭(はんさい)説」として後に大きな議論の的になった。キリシタン弾圧を乗り越えて天主堂をやっと造ったのに、原爆が落とされた。これをどう受容すればいいのか。ある種の観念的な考えを一般の人も迫られた。それが長崎のなかでは大きな流れになったと思います。

 私の家はカトリックではありませんが、祖母は晩年に「(郷里の)島原の畑を掘り黄金の十字架を拾った」と話した。夢でしたけれど心の奥に残った。私たちは特定の神様を忘れて生きてきた人間じゃないのか。想像力を刺激されデビュー作のモチーフにもしました。

 被爆60年から短編を書き継いだ「爆心」は薄れながら、ある時よみがえる記憶を描いたものです。登場人物は、被爆後をどう生きてきたのかを語り、なぜこんな苦しみに遭うのかと自問自答する。土地の記憶が私の心に浮かぶからです。

 原爆は強烈なノンフィクションです。体験のない者が、その世界を表すのはリアリティーに欠けるし、現実とずれる。「爆心」を書いている時に林京子さんとお会いし、自由に書いていいですよと言われた。想像力を膨らませてやっていけばいいと思いました。

 広島は、原爆に対する姿勢が明確で政治的な活動や訴えが強い。最初の被爆地であり、世界的に知られる街となった。外から来る人にも分かりやすいんじゃないでしょうか。

 原爆に遭った都市は広島と長崎しかない。広島が最初の被害しか言わなくても、長崎のことが包括されていると思います。競争する必要はありません。2005年の平和記念式典に伊藤一長前市長(故人)に随行して参列しました。黙とうする人々を包み込むように青い空が広がっていた。あの瞬間の長崎の空とつながっているなと思いました。

「3・11」後の世界
新たな経験 文明の転換点

 田上富久市長は9日の平和祈念式典で「原子力にかわる再生エネルギーの開発を進めることが必要」と呼び掛けた。長崎原爆資料館長は、市の平和宣言のとりまとめなどをする平和推進課と、平和学習などを受け持つ被爆継承課も率いる
 長崎の平和宣言は(市長を委員長に80年から)被爆者や学識経験者らでつくる起草委員会で文案を練る。市長の考えもよく反映される。報道されたように、今年は福島第1原発事故を受けた議論が交わされ、あの宣言となった。職員として文書をまとめる仕事には当たるが、作家としてではありません。また作家の考えを持ち込むべきものでもない。そこははっきり分けています。

 資料館の運営で言えば、被爆資料をきちんと保存し、展示の充実に努めることです。広島もそうですが市民が財政的にも担っている。国は戦争全般についてもっと取り組むべきだと思います。

 7月末にこの館で(長崎市出身の)立花隆さんの講演があり、「戦争の記憶を記録する必要がある」と言われた。共感しました。  田上市長が会長を務める日本非核宣言自治体協議会は、長崎県外の小学生と保護者が被爆者や式典を取材する「親子記者」を(08年から)実施しています。海外で活動する人を市の「平和特派員」に認定し、長崎を先日訪れたオノ・ヨーコさんにもなっていただいた。民間による高校生平和大使の国連欧州本部派遣などの活動もお手伝いしています。

 広島市長が会長、長崎市長が副会長の平和市長会議(現在151カ国・地域4892都市)の加盟都市が増えたのは、非政府組織(NGO)の協力が大きい。人とのつながり、ネットワークを生かして訴えていく。行政だけが取り組む時代は終わっています。

 「3月11日」後を作家として語れば、人間は新たな経験に直面している、文明の転換点にあるとの思いがします。生命科学のクローン技術を含め科学の進歩はどこまで許されるのか。科学は万能だという考えの危うさに人々は気づいているのではないでしょうか。宗教的な受容や見方が高まってくるかもしれません。

 核兵器も原発も人間が創りだした歴史の課題です。私が子どものころは米ソによる東西冷戦体制が終わるとは思われていなかった。だが乗り越えた。古くは米国の奴隷制もそうでしょう。人間は歴史を乗り越え、また新しい課題とぶつかる。

 若い人たちには、目先の利益にとらわれず、解決には時間がかかる問題を頭の片隅に置いてほしい。私は大学を出て2年近くうろうろしていた分、若い世代の生活への不安は理解できる。しかし100年たった時、自分がしてきたことはどうなっているのか、と考えることが大事です。それが人間の個性もつくります。

 「核」の問題は、人間が生きていく上で考え続けるしかない問題だと思います。

せいらい・ゆういち
   1958年長崎市生まれ。長崎大卒。「ジェロニモの十字架」で1995年文学界新人賞。「聖水」で2001年芥川賞、「爆心」で2007年谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞。他に「てれんぱれん」など。1983年に市職員となり、2005年からの平和推進室長を経て10年から原爆資料館長。

(2011年8月22日朝刊掲載)

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