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連載・特集

「脱原発」 熱を帯びる市民運動 反核2団体 試される底力

 東京電力の福島第1原発で「3月11日」から続く史上最大級の事故に対し、「脱原発」を掲げる市民運動が各地で熱を帯びている。日本の反核運動をつくってきた二つの組織、原水禁国民会議は「核と人類は共存できない」と原発反対の構えを強め、日本原水協も「原発からの撤退」へ行動しつつある。草の根からのうねりが高まる中で、老舗の反核団体はどう役割を果たそうとしているのか。現状と課題を報告する。(岡田浩平)


原水禁 原点に返り1千万署名
原水協 行動への第一歩を確認

 東京・新宿の明治公園で9月19日にあった「さようなら原発集会」。原発の新設計画中止や既設の計画的廃止を目標に、作家の大江健三郎さんら著名な9人が呼び掛けた反対集会には6万人(主催者発表)が参加した。実行委員会の中心は原水禁が担った。原水協からも常任理事ら約50人がのぼり旗を手に集った。事故から半年、それぞれこれまでの運動を問い直してきた。

 「運動の熱意は核兵器廃絶に偏りがちだった。反原発の取り組みが弱かったと反省しないといけない」。原水禁などによる今夏の原水爆禁止世界大会は、福島大会での川野浩一議長(71)のこのあいさつで幕を開けた。

 原水禁は1971年の世界大会で「原発反対」を初めて掲げた。75年には代表委員だった森滝市郎さんが「人類は生きねばならない。そのためには『核絶対否定』の道しか残されていない」と基調演説で呼び掛けた。

 核エネルギー利用の過程で「ヒバクシャ」を生み、平和利用は常に軍事利用と結びつく。そう主張して各地の原発建設に反対し、政府には代替エネルギー利用の政策提案もしてきた。にもかかわらず事故を防げなかった反省から、今夏の大会で森滝さんの言葉を宣言文などに繰り返し引用し「核絶対否定」の原点に立ち返った。

「世紀象徴の事件」

 井上年弘事務局次長(53)は「原爆投下同様に福島の事故は世紀を象徴する事件だ。核問題を扱ってきた私たちが今、核社会を問い直さねば」と力を込める。来春に政府、国会に提出する「1千万人署名」の達成に向け、集会に続く計画も練り始めている。

 原水禁運動は、米国が54年ビキニ環礁で行った水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)した事件を機に国民的な広がりを見せ、翌55年には広島で世界大会が開かれる。しかし60年代半ば旧ソ連や中国の核実験への評価をめぐり社会党系の原水禁、共産党系の原水協に分裂。77~85年に再統一大会を開いたが、原水協が反原発を明確にしなかったため「原発」を議題にするのは避けた。

 その原水協は度重なる原子力事故を受け、2002年に代表理事会で「原発からの段階的撤退」を決めた。しかし具体的な取り組みに乏しく、原水協などの世界大会でもプルトニウム利用など個別課題を取り上げたが、正面から「脱原発」を論じることはなかった。

 高草木博代表理事(67)は「原子力エネルギーに対する科学的可能性に留保しつつ、原発の自主、民主、公開を求めてきた。科学的な可能性まで否定するのには抵抗があった」と説明する。

 今夏の世界大会で初めて「原発からの撤退」を宣言や決議で表明した。しかし宣言起草委員会では、海外の参加者から「原子力エネルギーを選ぶ譲れない権利がある」「原発で見解が違っても核軍縮で一致してきた人たちを置き去りにすべきでない」との意見も出された。

 組織外からは「原発への認識を誤っていたとまず認めるべきだ」との批判もくすぶる。9月19日の集会直後に開いた常任理事会では、夏の大会を受けた「脱原発」の取り組み強化へ「今日が一歩」と確認し合った。

政策提案の動きも

 原水禁と原水協が共に集会に参加した点を評価する声はある。

 50年代後半に原水協事務局を務めた国際政治評論家の武藤一羊(いちよう)さん(80)=横浜市旭区=は、「集会に参加して終わりではなく、緩い戦線でもいいから足並みをそろえ政策を変えさせる力が必要だ」と指摘する。

 福島を受け止め、脱原発に取り組む非政府組織(NGO)や市民団体の動きは速い。

 例えば、国際環境NGO「FoE Japan」(東京都豊島区)は、子どもたちを放射線被害から守る活動に力を入れる。合わせて脱原発を求める新旧団体に呼び掛け「脱原発・新しいエネルギー政策を実現する会」(eシフト)を事故直後に結成。現在、原水禁も含め約60団体が参加して政府への政策提案作りを進めている。

 FoEで原発問題を担当する渡辺瑛莉(えり)さん(29)は「既存組織の枠組みを気にせずにネットワークを広められるのが私たちの強み」と運動を推し進める。

 原水禁、原水協とも脱原発の世論づくりには、NGOや市民団体、自治体との連携が欠かせないとの考えでは一致している。それをどう実行に移すか。広島・長崎・ビキニの核被害と向き合い、反核運動を引っ張ってきた老舗の底力は新たな運動の中で試される。


「『フクシマ』論」著者 開沼博さん 現場に赴き判断を

 福島県いわき市出身で事故前の福島原発を取材した修士論文が基の著書「『フクシマ』論」で注目される気鋭の研究者、開沼博さん(27)=東京大大学院博士課程=に脱原発運動への見方や課題を聞いた。事故後も地方にある「原子力ムラ」の日常を追っている。

 ―脱原発の世論をどうみますか。
 すぐにも原発が無くなるという雰囲気が4月ごろはあった。しかし今、再稼働を目指す政権に「違うでしょ」と突っ込む勢いは失われ、何も変わっていない。地元へ取材に行っても「また原発の話ですか」と住民に言われる。半年後にはどうなるだろうか。

 ―運動は広がっているように見えますが。
 運動は現場をすっ飛ばした空中戦をしている。私が取材に通う20キロ圏周辺の現場では多くの人が土地に残り、事故を起こした原子力と共存を始めている。お年寄りは避難所を嫌がり、農作業をして自宅でテレビを見ている方がいいと言う。月40万円稼ぐ父親が家族と避難して、同じように就職できるのか。現実的な判断があちこちでなされている。

 ―今後の運動はどのような視点が要るのでしょうか。
 運動が絶対的正義になってはいけない。相対的正義とは丹念に現場でリアリティーを見ることにある。何となくみんなかわいそうと思うことで、見えなくなるものは大きい。「原発に反対」と声を上げていない人の声も聞かないといけない。原発のある所に行き、静かに考える方が有効だと思う。

 ―原発の賛否についてどう考えますか。
 かつて原爆ドーム(広島市中区)を残すかどうかで議論があったと聞いた。今となっては(保存を)当然受け入れられてきたように思うがそうではない。原発もそうだ。事故が起きて危ないイメージになったが、当初は夢の科学技術として地元、社会に受け入れられた。  原発があればエコになる。地方から出稼ぎしなくていい。スマートフォン(多機能携帯電話)でツイッターをして毎日充電する。こうした「原発のある幸せ」は何だったのかを省みない限り、「原発なき幸せ」は考えられないのではないか。

(2011年10月3日朝刊掲載)

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