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連載・特集

「3・11」後 変わる被爆証言 広島から 3人の思い

 「安全神話」のベールに包まれてきた原子力発電に対し、これまで反対の声を上げることの少なかった広島・長崎の被爆者。しかし、多くの人々の健康を脅かし、経済にも甚大な被害を与えている3月の東京電力福島第1原発事故は、被爆者の意識に大きな変化を与えている。「脱原発」の立場を明確にした日本被団協のような組織だけでなく、個々の被爆者の証言活動にも如実に表れている。外国人にも話す機会の多い3人の被爆者を通して実情をリポートする。(特別編集委員兼ヒロシマ平和メディアセンター長 田城明)


海外外交官に語る 松島圭次郎さん

「三つ目の原爆」 汚染に警鐘

 9月末の土曜の午後。広島市中区の原爆資料館地下の研修室で、松島圭次郎さん(82)=佐伯区=は、米国やイラクなど「国連軍縮フェローシップ」に参加した25カ国25人の若手外交官に英語で話しかけた。

 「6カ月前の福島原発事故のニュースを聞いたとき、非常にショックだった。私たち日本人は、広島・長崎に次いで三つ目の原爆を体験しているように感じた」

 淡々とした口調で、自らの被爆体験を語るよりも先に、原発事故に言及した。

 「広島・長崎の被爆体験からどれだけ学んだだろうか。私たちは核エネルギーがもたらす恐ろしさを過小評価していたかもしれない。放射能で汚染された福島では、66年前の広島や長崎と同じように、これから長い間厳しい状況が続いていくだろう」

 今も多くの避難者がいることなど事故がもたらした影響についてひとしきり触れ、さらに言葉を継いだ。

 「こういうときだからこそ、あらためて原爆被害の実態や核兵器の危険性を学び、核軍縮の重要性について知ってもらう意義があるかと考えます」

 ここで話を転じた松島さんは、原爆で焼失した市内地図を示しながら、16歳で被爆し、校舎の下敷きになりながら辛うじて生き延びた当時の体験などを40分近く語った。

 熱心にメモを取っていたドイツ外務省のウルリッチ・クーハンさん(34)は、「軍縮政策に関わる者として、抽象的ではなく、現実のものとして原爆の破壊力のすさまじさを知り得たのは貴重。同時に放射線被曝(ひばく)がもたらす危険は、原爆も原発も同じだということをよく示していた」と感想を口にした。

 多くの被爆者と同じように、松島さんは今回の事故が起きるまで、自身の証言の中で原発の是非について触れたことはなかった。だが、停止して1ワットの電力すら生み出せないのに「沈静化させるだけでも多額の金と危険を伴う作業」を続け、計り知れない人的、物的被害を周辺に与えている現実を直視すれば「原発反対、再生可能エネルギーの追究ということにならざるを得ない」と率直に話す。

 核軍縮が遅々として進まない中で、原発に大きく依存した国や、持ちたいという発展途上国が増えればどうなるか。「地球や人類が再生不能になるような事態が将来起こり得ることも想像しなければならないのだろうか…」。そうならないようにと願って証言を続ける松島さんだが、人類の未来に懸念を強めている。



ドームそばで活動 三登浩成さん

質問に衝撃 「反核」問い直す

 2006年7月から雨天の日などを除きほぼ毎日、原爆ドームそばで国内外からの訪問者に証言活動を続ける胎内被爆者の三登浩成さん(65)=広島県府中町。多いときは5、6人に増えた仲間とともに、1日に何回もの証言を繰り返す。

 「福島原発の事故以後、ヒロシマに寄せる人々の関心は大きく変わりました」

 チェルノブイリ原発事故などを通じて、原発の危険性はある程度知っていた。だが、「3・11事故」が起きるまでは、原発の問題に触れることはなかった。

 「30分ほどの限られた時間内で、いかにヒロシマの被害実態を分かりやすく、正確に、心に響くように伝えるか。被災写真や被爆者が描いた原爆の絵、新聞記事をファイルにして示すなど工夫を重ねてきた。でも、その中で原発問題を持ち出すのは唐突すぎて…」と三登さんは振り返る。

 だが、今は違う。原爆資料館を見学する多くの人たちは、66年前に起きた熱線や爆風による被害に関心を示すだけではない。それ以上に放射線が被爆者にどう影響を与えたか、内部被曝の問題は―など「フクシマの状況と重ね合わせて考えようとしている」と言う。

 高校の英語教員だった三登さんは、海外からの訪問者に説明する機会も多い。彼が「大変ショックだった」と回想するのは、事故から約10日後に、英国の女性から質問されたときのことだ。

 「被爆者はむろん、あなたたち日本人は放射線の恐ろしさを一番知っているはずでしょう。それなのになぜ50基以上も原発があるのですか。信じられません」

 海の向こうから見れば、被爆者は当然、原発に反対していると思われているのかもしれない。「でも、実際は違う。なぜそうなったのか、そのときは勉強不足で十分に説明できなかった」と悔やむ。

 調べると、「平和利用」に伴う米国の思惑と、原発技術を導入したいという日本の一部政治家やメディア関係者らの働きが背後にあったことを知った。「結局日本人は、原発は『良い核』で、核兵器は『悪い核』だと区別して考えるようになってしまった。『反核』と唱えても、原発は含まれていない」

 入市被爆者や「黒い雨」を浴びた人たちの例を挙げて内部被曝の恐ろしさを説明する。世界の地震発生場所と原発立地点を重ね合わせた地図を示しながら、他国と比べいかに日本列島全体が重なっているかを視覚に訴える。

 「核兵器でも原発でも黙っていては、肯定したことになります。原爆や放射線について広島で学んだことをぜひ生かしてください」

 三登さんらの原爆ドームそばでの「青空教室」は、今日も続く。

国連事務総長に面会 田中稔子さん

「子への影響」 不安寄り添う

 福島原発事故が起きて間もない3月24日、田中稔子さん(72)=東区=は、広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根(リシルグン)会長=西区=ら2人の被爆者と一緒に、米国ニューヨークの国連本部にいた。平和市長会議が提出した102万筆分の核兵器廃絶署名用紙を重ねて造ったモニュメントの完成式典に出席、潘基文(バンキムン)事務総長に面会して廃絶への願いを伝えるためだった。

 田中さんは面会の際に、通訳を介してその思いを伝えるだけでなく、勇気を奮ってこう訴えた。

 「日本は今、フクシマの問題を抱えて大変です。私たちはもう核兵器によっても、原発によっても核被害者を見たくありません。どうか自然エネルギーに転換するように世界に呼びかけてください」

 事務総長は立場上、軽はずみな発言はできないのは分かっていた。「でも、何度も戻ってきては握手をしてくれた。少しは気持ちが伝わったのでは…」

 彼女は潘氏への言葉に、今に至るまで心奥で苦しみ続けた被爆者の思いを託した。それは6歳のときに被爆、首や右腕にやけどを負い、生死をさまよったことではない。白血球の減少など病気がちだった子どものころのつらい記憶でもない。

 25歳で結婚。3年後に生まれた長男が漏斗胸(ろうときょう)の骨の異常を持って生まれたことや、同じ被爆者の妹の子どもが甲状腺がんの手術を受けたことなど、次世代に被爆の影響が出ているのではないかという拭い得ぬ不安である。

 放射線被曝の影響かもしれない。が、医者に相談しても証明してくれない。口にするほど、かえって偏見や差別となって返ってきた。壁画七宝作家として、平和への祈りを込めた作品づくりに励むことで、「自らのトラウマ(心的外傷)を抑えてきたのかもしれない」と述懐する。

 福島原発から大量に放出されたセシウムなどの放射性物質。子を持つ母親ら放射線被曝による人体影響を懸念する多くの人々の思いが痛いほど分かるという。

 田中さんが人前で証言を始めたのは2008年末。この年、東京のNPO「ピースボート」に乗船。南米の寄港先で初めて長男の障害にも触れ、精神的な悩みも語った。「被爆者には、世界の人々に体験を語る責務がある」。ベネズエラの政府要人の言葉に勇気を与えられたという。

 今年5月には再びニューヨークを訪れ、高校や教会などで証言。原発問題についても活発に意見を交わした。

 「次世代に新たな放射線被害者を生まないようにするのが私たちの務めだと思う。創作を続けながら、証言活動などやれる範囲のことをやっていきたい」。その言葉に被爆者の責務を果たしたいとの決意がにじむ。

(2011年10月17日朝刊掲載)

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