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連載・特集

原爆ドーム 継ぐ努力を 第1回保存工事担当 広島の二口さん

 45年前の原爆ドーム(広島市中区)の第1回保存工事で現場責任者を務めた元清水建設広島支店社員、二口(ふたくち)正次郎さん(91)=安佐南区=が、保存状況を調べる健全度調査中のドームを訪れた。崩壊の恐れがあったドームをよみがえらせた「誇り」を胸に、「平和の象徴をずっと残してほしい」と願った。(論説委員・金崎由美)

調査視察 あせぬ記憶 「100年単位」 願い託す

 「想像以上の劣化でそれは大変な工事だった」―。かつての「現場」で歩を進めるごと記憶があふれ出た。二口さんは外壁を指さし、「ドリルで穴を開けていたら、ぐらぐらと揺れた。慌てて『ストップ』と叫んだ」。同行した市の山口哲治主任技師(42)と長女のとみゑさん(62)に語った。

 被爆から22年後の1967年、実質的な工期がわずか3カ月の「大突貫工事」の担当を命じられた。市、工事の方針を決める専門家委員会、職人の間に立ち工事を指揮した。

 壁の割れ目やれんがの隙間を樹脂の接着剤で埋め、補強用の鉄骨を内部に張り巡らせた。壁を鋼材で挟み、安定させながらの作業。腕利きの職人が全国から集まり、化学メーカーは工事のために接着剤を開発した。「れんが1個も落とすな、が合言葉。保存工事が『破壊工事』になっては困るから」。接着剤を埋めた箇所は約1万に上った。

 「二口さんたちが手掛けた工事がしっかりしていたから今のドームがある」と山口さんは実感を込める。大学生だったとみゑさんは母が作った弁当を現場に届けた。「さまざまな立場の人が『あの日』の継承を担っていると知った」。自身は今、被爆ピアノコンサートなどの活動を続ける。

 ドームはかつて保存と撤去で世論が割れ、崩壊の危機にあった。「広島折鶴の会」の小中高生の保存運動を機に官民を挙げた募金運動に発展。市は集まった6600万円から工事費を賄った。89年の第2回工事にも約4億円が寄せられた。残った募金で設立した基金は3年に1度の健全度調査を支えている。

 二口さんは第2回工事でも技術指導に当たった。健全度調査が実質的に終わった2月29日、第3回工事を視察した2002年以来10年ぶりに訪れた。「世界遺産になって修理が制約され市は大変だろう。雨水対策が肝心で早めの補修を続ければ100年単位でもつ。頑張って今の形のまま後世に継いでほしい」

原爆ドーム
 1996年に世界遺産に登録された。15年、広島市中心部の元安川沿いに「広島県物産陳列館」として完成。33年、県産業奨励館に改称した。爆心地からの距離は160メートル。被爆時は中にいた30人全員が即死したとされる。53年に県から市へ譲与。市は67、89、2002年の3回、保存工事をした。92年からはドームの「人間ドック」である健全度調査を原則3年ごとに実施。今回は壁面のひび割れや鋼材の腐食、建物の沈下の有無などを調べた。夏ごろに専門家委員会へデータを報告。保存工事が必要かどうか判断する。

(2012年3月5日朝刊掲載)

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