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連載・特集

3.11以後 復興と表現 第1部 現場から <1>

◆仙台フィルハーモニー管弦楽団正指揮者 山下一史さん(50)=広島市東区出身

傍観者ではいられない

 あの日、仙台にいた。JR仙台駅から北約4キロの市青年文化センター。正指揮者を務める仙台フィルハーモニー管弦楽団のリハーサル前だった。大きな揺れに立っていられない。楽団員と手を取り合って体を支えた。

 楽団員は全員無事だったが、建物は破損。その日の演奏会が中止になり、仙台フィルの定期演奏会は当面取りやめになった。それから何も手に付かなかった。どんな表現手段も意味を持たないんじゃないか。無力感に襲われた。「音楽家に何ができるか」を自問し続けた。

 地震から2週間後、気持ちに変化が起きる。大阪市で大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮した演奏会。バーバーの「弦楽のためのアダージョ」などを終演すると、一人の女性が近寄ってきた。「16年前、私たちが助けてもらった。今度は私たちが助ける番」。阪神大震災の経験者だった。

 「音楽をできる喜びが湧き上がった」と振り返る。「音楽家は音楽なしに生きられない。音楽によって生かされている」。そう思えた。「自分が音楽から受け取る力を、聞き手にも」―。前を向けた瞬間だった。

「故郷」を合唱

 仙台フィルメンバーは被災地で約200回の復興コンサートを繰り返した。自身も各地で指揮台に立った中で、仙台市内の高校の小さなホールでの情景が忘れられない。まだ余震が続いていた。「ありったけの声を張り上げて歌いましょう」。自ら呼び掛け、みんなで「故郷」を歌った。ホールは泣き声で埋まり、メンバーも感極まった。「演奏家と聴衆が一つにつながった」

 2007年に能登半島地震に遭った石川県のホールではこんなことがあった。終演して一向に拍手がやまない。仙台フィルのメンバーがステージに戻ると、聴衆から掛け声が飛んだ。「頑張れ」「また来いよ」。他のクラシックコンサートではまず見ない光景だった。メンバーは泣いていた。

 「心に皮膚があるとしたら、その皮膚が非常に薄くなった状態。ちょっとした刺激に敏感になり、励ましの声が胸に染みる」。翻って今のクラシック音楽は、送り手からの一方通行になっていないか。「オーケストラは市民と心寄せ合う存在であってほしい」。そう願わずにいられない。

再起 何度でも

 被爆2世。母博子さんが爆心地から800メートルの地点で被爆した。当時18歳の博子さんは倒壊した自宅から6歳の弟祐策さんを連れて逃げた。16日後、祐策さんは大量の血を吐いて亡くなった。博子さんは生命をつなぎ留める。「われわれの親世代は死に物狂いで頑張った。人間には何度でも立ち上がるパワーがある。復興コンサートでも、人々の力に何度勇気づけられたことか」

 「われわれの世代はバブル期の延長のようなぬるま湯に漬かっていたのではないか」と疑問を投げ掛ける。「今の日本を立て直せないなら、それはわれわれの世代の責任。一人一人が傍観者ではいられない。僕はどこまでも音楽を発信し続ける」(上杉智己)


 昨年3月に起きた東日本大震災は表現者たちに衝撃を与えた。何をどう発信すべきか。悩み、沈黙してしまった人たちもいる。第1部は、そうした中で、新たな一歩を踏み出そうとする中国地方ゆかりの表現者を追い、復興を支える表現の可能性を考える。

やました・かずふみ
 桐朋学園大卒。ベルリン芸術大に留学後、指揮者カラヤンのアシスタントを務めた。2006年、仙台フィル指揮者、09年から正指揮者。今月で退任し「充電期間」に入る。東京都世田谷区。

(2012年3月1日朝刊掲載)

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