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連載・特集

3.11以後 復興と表現 第1部 現場から <2>

◆詩人・被爆者 橋爪文さん(81)=広島市中区出身

心の叫び 胸にフクシマ

 東日本大震災の5日後、書きかけの原稿を携えて、広島に向かう新幹線に乗った。60歳を過ぎて始めた「反核海外ひとり行脚」に込めた思いや、被爆前後の広島の暮らしについて一昨年から書き進めていた。

 「今、私に何ができるかを考えた時、この原稿を完成させ、後世に体験を伝えることだと思った」。だが、滞在するホテルで原稿用紙を広げても筆が動かない。

核廃絶を願う

 福島第1原発事故の衝撃が頭を離れなかった。「核は人間が制御しきれない。いつか事故が起きる」と思っていた。でも「まさか日本で起きるとは。取り返しがつかない、次世代にとんでもなく重いものを持たせてしまった」。広島に来て2週間、本の執筆が進まない一方、核廃絶を願う文章があふれてきた。

 原爆被爆国の日本が放射能発生加害国になっていって良いのでしょうか?/時間はありません。現在稼働している原発を止めるように働きかけましょう。

 「誰かに見せようと思ったわけじゃない。心の叫びです」。2400字を超える文章を友人が英訳してくれた。「広島から 日本のみなさん、世界のみなさんへ」。そう呼び掛ける文章は、チラシとして配布され、インターネットで公開され、友人から友人へと波紋のように伝わった。

 広島女子商(現広島翔洋高)に通っていた14歳の時、動員先の広島貯金支局(広島市中区)で被爆した。頭などに大けがを負ったが、一命は取り留めた。その後数年は高熱とひどい下痢などで入退院を繰り返した。

 「被爆後しばらくは情報が何もなく、原子爆弾だなんて分からなかった。もちろん放射能による内部被爆のことも」。難病を患い、24歳で治療のため東京に移った。今も耐え難い倦怠(けんたい)感に悩まされる。

 病は回復せず、40代の頃、余命半年の宣告を受けた。幼い3人の息子に何か残しておきたいと、詩を書き始めた。

 全市が 燃えていた//生は とっくに断たれ/死も 二人の上を素通りして行った/二人は 生死を越えた空間にいた/やがては/金の火の粉が/二人のからだを埋めて行くだろう(「出会い」から)

 高校生になった息子から「なぜお母さんは平和を求めながら何もしないのか」と問われ、つづった原爆詩。還暦を過ぎてからは英語を習い、1人で海外へ出掛けて反核・平和を訴えてきた。

体験記に加筆

 広島で書いたメッセージは反響を呼び、昨夏、ラジオで被爆体験を語った。その後、2001年に出版した「少女・十四歳の原爆体験記」(高文研)にも問い合わせが相次ぎ、新版の出版が決まった。その中に、フクシマへの思いを加筆した。

 「核の廃絶は兵器だけではなく原発を含めてほしい。私は将来原発が地球を滅ぼすと思っています」。3年前、米国のオバマ大統領宛てに書いた手紙の一節だった。

 今も体調がすぐれず、原稿は進んでいない。だが、福島の事故は被爆者である自分の使命をさらに強く意識させる。「あの日、瀕死(ひんし)だった私を助けてくれた2人も既に亡くなった。原爆供養塔に納められた約7万人の声なき声に耳を傾け、書き上げたい」。被爆し、核を考える原点となった広島で原稿を完成させたいと願う。(伊藤一亘)

はしづめ・ぶん
 日本ペンクラブ、日本詩人クラブに所属。執筆の傍ら30カ国以上を訪れて反核を訴えた。詩集「地に還るもの 天に昇るもの」(砂子屋書房)など。東京都町田市。

(2012年3月2日朝刊掲載)

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