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連載・特集

震災避難者 それぞれの1年 <5> 広島で守る子の未来

菅野佐知子さん 福島市渡利地区から子ども3人と

 昨年は放射線を避けて閉じこもっていた春休み。目前に控えた今年2月末、宿題に向かう小学6年の長男竜太君(12)を、自宅で優しく見守った。

 「転校直後はなかなか笑顔を見せなかった。心配していたが、徐々に広島の小学校に慣れてきたみたい」

 昨年8月、小6、小4、4歳の息子3人を連れて福島市から広島市西区へ自主避難を決めた。福島第1原発から北約60キロの自宅周辺は放射線量の高い「ホットスポット」。子どもの低線量被曝(ひばく)を懸念し、長崎大まで出掛けて内部被曝の検査も受けた。

 「子どもの環境を変えることに不安もあった。でも、福島と違い、外で自由に遊ぶ息子たちの楽しそうな姿に背中を押された」

 広島を選んだ理由の一つは、福島で知り合った「ママ友」が広島の実家に戻っていたから。知り合いはそれくらい。子どもたちも一からのスタートだった。

 「竜太は、初めの頃は『帰りたい』『福島の中学校に通いたい』とたびたび言っていた。最近はようやく慣れてきたのかな」

 仕事のため福島に残る夫(49)は昨年末、初めて広島に来た。5カ月ぶりの再会だった。

 「夫から『広島の中学校に通っていいよ』と言ってもらい、竜太も安心したみたい」

 自身は生活を支えるため昨年9月から、中区のNPO法人でパートを始めた。休日は原発について考える集会への参加などで時間が過ぎる。主婦だった頃の生活とは一変した。

 「被災者として声を上げようとすればするほど、疲れてしまう。子どものための避難なのに、手を掛けてあげられない」

 それでも、子どもたちの顔つきは少しずつ変わってきた。竜太君は今春、広島市内の中学校に進む。入りたいクラブの話をするなど、心待ちにしているようにも見える。

 来春には住宅の無償提供が終わる。そうなれば、今の収入では暮らせない。残るか、戻るか。悩みは深い。

 「全てを諦めそうにもなるが、どんな形であっても、子どもの未来は守ってあげたい」(山本堅太郎)=おわり

<菅野さんと家族の1年>

                                                                                                                 2011年   3月11日    自宅で被災。棚が倒れ、電気が止まった。子どもたちは小学校から途中下校 
         7月22日    子どもの夏休みの間の一時避難として、広島市安芸区の賃貸住宅に滞在 
           25日     長崎大で長男、次男がホールボディーカウンター(全身測定装置)の検査を受ける
         8月22日    自主避難を決意し、広島市西区の雇用促進住宅へ
         9月20日    中区のNPO法人でパートを始める
        12月28~31日 夫が初めて広島を訪れ、子どもたちと5カ月ぶりに再会

(2012年3月12日朝刊掲載)

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