×

連載・特集

3.11以後 復興と表現 第1部 現場から <4>

◆フォトジャーナリスト 豊田直巳さん(55)=東京都東村山市

未来に生かせる写真を

 「怖い」。カメラを手に思わず声が出た。放射線測定器の針が瞬時に振り切れる。東日本大震災発生から2日後の2011年3月13日、福島県双葉町の病院前にいた。原子炉の炉心溶融などが報じられた福島第1原発から約3キロ。確かな放射線量すら分からない。過去に取材した世界の核被害地でも経験がなかった。

 ぼうぜんとする自分に言い聞かせた。「いま記録しなければ写真家として伝えられるものはゼロだ」。この後、被災地を14回訪問。仮設住宅に暮らす被災者や、放射能汚染に苦悩する農家を何度も訪ね、震災の爪痕にレンズを向けてきた。

 出荷できない野菜を刈り捨てる農家、酪農仲間の廃業を聞いて伏せ込む男性、牛を処分場に送りだす老夫婦…。「同情などではなく、被災者の心情や暮らしに正面から向き合いたい」。この1年で何十万こまも撮った。

危険性を表現

 目に見えない放射線の危険性を表現したいと願う。「写真は風景の一部を切り取るもの。ひとこまに出来事の本質を捉えているか、見る人に被災地の実情を想像してもらえるか。まだ自信はないが、できる限りのことを伝えたい」

 あの日は東京・新宿にいた。10日前までチェルノブイリ原発事故の現地取材をしていた。そのドキュメンタリー番組の打ち合わせ中、激しい揺れに襲われた。「東北の原発は大丈夫か」。翌日、車に機材を積み、撮影仲間と北上。道すがらラジオが福島第1原発の原子炉建屋の爆発を伝えた。

 「悔しくて、自分が情けなくなった」。湾岸戦争やイラク戦争で米軍が使用した劣化ウラン弾の問題を追い掛けてきた。放射線の影響とみられる甲状腺がんの患者、先天性の身体異常の子どもを抱える家族らを取材。「核や原子力の危うさを頭では分かっていても、足元の日本で大きな原発事故が起きることへの想像力が欠けていた」

 被災者が残した言葉が忘れられない。昨年4月、ある女性は「見えない戦争を戦っているみたい」と言い残して古里を離れた。同6月には酪農家の男性が自ら命を絶った。「原発さえなければ」。堆肥舎の壁に書かれた遺書に絶句した。

あふれる不安

 「僕自身、地域の再生など難しいのではと考え込んでしまう。それでも取材すると、みんなせきを切ったように身の上を語ってくれる。抑えきれない不安やストレスがあるからなんでしょう」

 その中で前を向く人もいる。福島県から山形県へ避難した30代の酪農家は、新天地での再起を熱く語った。明治期の水害で奈良県十津川村の人々が北海道で新たな村を築いたように「新○○村をつくろう」という声も聞く。「漠然とだけど、それぞれが現実を直視して将来を考えている。人々のたくましさを感じる」

 東京のほか、栃木、山梨県で写真展を開催。広島市で2月末、「フクシマの一年」と題して講演した。03年、イラク戦争に反対する市民ら6千人がつくった人文字を取材して以来、通ってきた被爆地広島。「私たちは何をすればいいか。すぐに結論は出ないが、それぞれが考え、思ったことを実行していこう」。100人余の聴衆にあらためて呼び掛けた。

 「これから福島がどうなるのか分からないが、少しでも再生へ向かうきっかけを探したい。50年先、100年先に生かせる記録となる写真を撮り続けたい」(林淳一郎)

 とよだ・なおみ
 静岡県川根本町生まれ。中央大卒。1983年からパレスチナ難民の取材を開始。中東やアジアを中心に約70カ国を訪れ、地域紛争や劣化ウラン弾問題などを取材。著書に「福島 原発震災のまち」など。

(2012年3月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ